大池の水で箔を置いたように輝いている。背後に立っているのは昆虫館で、玄関の戸が開いている。窓のカーテンは引かれている。柱や板壁に彫りつけられた、昆虫の模様にも陽が射している。
と、そこから呼ぶ声がした。「桔梗、桔梗、ちょっとおいで!」
カーテンが開けられて現われたのは、昆虫館主人の顔であった。
十四
桔梗様と別れた小一郎は、大池の方へ歩き出した。胸の中は幸福で一杯であった。
「態《ざま》ア見やがれ南部集五郎め!」こんなことを呟いた。「勝ったよ勝ったよ俺の方が、昆虫館も先に探し出したし、美しい声の主の桔梗様も、お前より先に手に入れてしまった。もっとも今のところ『心』だけだが。その中|身体《からだ》だって手に入れて見せる。だが集五郎めどうしたかしら? 大水に流されて谿《たに》へ落ち死んでしまやアしないかな」それからまたも呟いた。「態ア見やがれ、阪東小篠め! あんな女には用はない!」ここでちょっとばかり憂鬱になった。「だが君江はどうしたろう? 英五郎殿はどうしたろう? 確かにこの俺を助けようとして、あの時大勢でやって来たが、やはり大水に流されたらしい。死にはしないかな、谿へ落ちて。もしそうなら気の毒なものだ」しかし小一郎は諦めることにした。「考えまいよ、そういうことは。現在の幸福に浸ろうよ」
大池の岸へ出た小一郎は、枯草を敷いて眺めやった。別に変わった池でもない。熔岩だろう黒い岩が、グルリと池を取り巻いている。池の形は楕円形で、いささか人工は加えられているが、天然に出来たものらしい。黒いまでに蒼い水の色、早春の水としては当然である。漣《さざなみ》一つ立っていない。すなわち風が吹かないからだ。ちょうど鞣《なめ》し革でも敷いたようである。一所箔のように輝いている。日光の加減に相違ない。水鳥が幾羽か浮かんでいる。水草がのびのびと流れている。じっと見ていると心が和み、つい恍惚《うっとり》となってしまう。
池の周囲に点々と、沢山の家が立っている。それとて変わった造りではない。小さな木造の日本家屋である。だがいずれも平屋建てで、障子が白々と陽に光っている。ここの住民は花好きと見え、家々の前庭には花壇があり、早春の花が咲いている。
池と家とを守護《まも》るようにして、空を摩すような大森林が、錆びた鉄のような頑丈な幹と、黒曜石のような黒い葉とで、周囲をグルリと取り巻いているのは、まさしく偉観と云ってよかった。で、この場の風景は、こんなように形容することが出来る。大森林という円筒の中に、穏かな池と可愛らしい家と、そうして美しい花壇とが、こっぽり[#「こっぽり」に傍点]囲まれて出来ていて、そこで大勢の人達が、さも愉快そうに働いていると。――
全く大勢の人達が、そこで働いているのであった。家の中にも人がいる。家の外にも人がいる。みんなクルクルと動き廻わっている。男もいれば女もいる、年寄りもいれば子供もいる。笑い声、話し声、唄い声、それが快い合唱《コーラス》となって、大池の方へ蒔かれている。何を働いているのだろう? 昆虫館の館主のために、各自の仕事をしているらしい。
森林にかこまれているためか、寒い風など吹いて来ない。季節はたしかに一月だが、気候から云えば三月のようだ。いい天気だ、あたり明るく、小鳥が八方で啼いている。桃源境! 別天地! だが不具者《かたわもの》の社会でもあった。
と云うのはそうやって働いている、大勢の人間の一人一人が、片耳であったり片足であったり、てんぼう[#「てんぼう」に傍点]であったり盲目《めくら》であったり、唖者《おし》であったり聾者《つんぼ》であったり、満足な人間はないからであった。
想うに碩学昆虫館主人が、世の廃人《すたれもの》を拾い集め、ここに別社会を建設し、何らか事業をしているのらしい。
だが遠くから見ていると、不具者《かたわもの》などとは思われない。みんな健康《たっしゃ》そうな人間に見える。
「平和で長閑で美しい。いい境地だ。住みよさそうだ」うっとりしながら小一郎は、こんなことを考えた。「あの桔梗様と婚礼をし、あの学者を舅に持ち、ここでいつまでも住みたいものだ」
少し睡気《ねむけ》がさして来た。横になろうとした。しかしその時近寄って来る、人の気勢《けはい》が感じられた。コツンコツンと松葉杖の音が、灌木の叢の裾を巡り、現われたのは片足の吉次で、小一郎の前へ立ち止まると、不遜な目付きでジロジロと、小一郎の体を嘗め廻わしたが、
「騎士《ナイト》よ」と云い出したものである。それから嗄《しゃが》れ声で笑い出してしまった。笑いおえると云ったものである。「ここ神秘なる昆虫館で、厳重に禁じられているものを、一式氏にはご存知ないと見える」
「厭な奴だな」と小一郎は、快い睡気を醒ましたが、明るくて皮肉な性質である。負けずに云い返した。
「拙者新米、昆虫館の掟、さようさ、とんと[#「とんと」に傍点]存じませんて」
「そうらしいの」と片足の吉次は、いよいよ不遜な態度をとったが、「穢してはならぬよ! 女王をな! 女王との恋は禁じられているよ」
「ははん、さようか、それはそれは」一式小一郎はこう云ったが、女王が何者だかということは、すぐに推察することが出来た。
十五
そこで小一郎は云い出した。
「穢しはせぬよ、崇めるばかりだ」
「それがいけない」と片足の吉次は、「崇めた後では穢すものさ」
「名言」と小一郎は一笑してしまった。「君の人情観察には、徹底したものがあるらしい。で、一応は受け入れて置こう」
「守らっしゃい!」と押し付けるような声で、吉次はグッとたしなめ[#「たしなめ」に傍点]にかかった。「いっそ昆虫館をお立ち去りなされ!」
「さあてね」と小一郎は、わざと困ったような顔をしたが、「女王殿下が許しましょうかしら?」
「ソレソレソレ、それが悪い!」吉次は今度は叱るように、「許すもない、許さないもない、本来神秘昆虫館へは、下界の人間を入れぬが規則、そいつを破って貴殿一人を、ここへ住居を許したのは、桔梗様特別のお慈悲だからだ」
「だからよ」と小一郎は冷《ひや》っこく、「その桔梗様がこの拙者を、お放しなさるまいと云っているのさ」
「だからよ」と吉次も云い返した。「そういうお慈悲深い桔梗様だ、恋してはならぬ、手を取ってはならぬ、うむ、そうして跪座《ひざまず》いてはならぬ」
「ははあ隙見をしていたな」
「見守っていたのだ、厳しくな!」
「手を下されたのは桔梗様だ」
「お前がそれを強請《せが》んだからさ」
「恋の告白をしただけさ」
「オイ」と吉次は憎々しく、「この昆虫館にいるほどの者で、誰一人として桔梗様を、恋していない者はないのだよ。ただそいつを云い出さないまでさ!」
「そこでこの俺が云い出したのさ」
「そうだ、外来者の外道めが!」
「外道、よかろう、恋の勝利者!」
「俺が許さぬ!」とヌッと吉次は、松葉杖を上げると進み出た。
「俺が許さぬ! な、俺が!」
だがどうやら小一郎には、一向それが風馬牛らしい。「いったいお前は何者かな? 兄か、弟か、桔梗様の?」
「世にも忠実なる女王の僕《しもべ》さ!」これが吉次の返辞であった。
「そうか」と小一郎はゲラゲラ笑い、「引き立ててやろう、この俺がだ! 女王の※[#「馬+付」、第4水準2−92−84]馬《ふば》になった時!」
怒るかと思ったら反対であった。片足の吉次は、声を窃《ひそ》め、諂《へつら》うように頼むように、囁くような声で云ったものである。
「まあさまあさ小一郎殿、角目立つのは止めにしましょう。お互いろくなことはありませんからな。で、今度はご相談、いやいやむしろお願いでござる。と云うのは他でもないが、今も私申しました通り、昆虫館に住むほどの者で、あのお美しい桔梗様を、愛し崇めていない者は、一人もないのでございますよ。まさしく文字通り女王様でござる。だからどうしてもあの方だけは、永遠の処女で置かなければ、治まりがつかないのでございますよ。一人が占有しようものなら、それこそ誰も彼も怒りますて。まして貴殿は外来者、そうでなくてさえ白い眼で、みんなに見られているのでござる。そういう貴殿が占有したとあっては、昆虫館住民一斉に、騒ぎ立てるは見たようなもの、これが私には心配でな……。で願わくば昆虫館を、至急お立ち去りくだされたいもので」ここで上眼を使ったが、さらに一段声を窃め、「それが厭だとおっしゃるなら、よろしいよろしいお住居《すまい》なされ。ただし充分ご注意くだされ、今後は決して桔梗様の側へ、お立ち寄りなどなさいませんよう。そうして」と云うと狡猾らしく、二、三度|眼瞼《まぶた》を叩いたが、「そうしてどうぞ桔梗様へ、このようにおっしゃっていただきたいもので、『先刻下されたあの御手は、何かのお間違いかと存ぜられます。で、私におきましては、失礼ながらあなた様との恋は、この際お断わり致します』とな。……そうするといつまでもこの里は、平和を保つことが出来ますので」
こう云われて見れば小一郎も、一思案せざるを得なかった。
「なるほどな、そんなものかも知れない」心の中で呟いた。「昆虫館住民一人残らず、桔梗様を崇めているという、これには嘘はなさそうだ。外来者の俺が占有したら、たしかに不快に思うだろう。せっかくの平和が破れるだろう。こうなっては仕方がない。惜しい恋人ではあるけれど、桔梗様を見棄ててここを去ろう。そうして一まず関宿へ帰り、角屋の安否を尋ねて見よう。それから江戸へ帰るとしよう。だが待てよ」と小一郎は、吉次の顔をつくづくと見た。「醜貌ながらも智恵ありげだ。それもどうやら邪智らしい。こいつの言葉をそのままに、はたして受け取っていいだろうか?」ふとこの点へ気が付いた。
と、早くも片足の吉次は、小一郎の心中を読んだらしい。ヒョイと二、三歩飛び退ると、俄然態度を一変した。
十六
「ふふん」とまずもって片足の吉次は、毒々しく笑ったものである。
「承知《きく》か、それとも断わるか、俺の云うこと、どうだどうだ! もしも」と云うとピョンピョンと、二足ばかり飛び出したが、「断わると云うなら覚悟がある! 落ち下るぞよ、恐ろしい危険が! しかも即座だ! さあ返答!」
云いながら奇妙にも全身を、満足の一本の足の方へ、そろりそろりと傾けて来た。
「はたしてこいつ奸物だわい」見抜いた一式小一郎は、グンと突っ刎ねたものである。「恋も捨てぬよ、この地へも止どまる、アッハッハッ、気の毒だなア」
「きっとか!」と吉次は、いよいよ益※[#二の字点、1−2−22]、片足へ全身をもたせかけたが、心持ち両肩を縮めると、首を突き出し、上眼を使い、狙ったは小一郎の頤の辺。「見損なうなよ、この吉次を!」
「見損なうなよ、一式小一郎を」
とたんに、「うん!」という凄い呻きが、吉次の口から迸しったが、瞬間ピューッと空を裂き、刎ね上がったは松葉杖で、ピカッと光ったは杖の先に、取り付けてある鋼鉄《はがね》の環、それとて尋常なものではない、無数の鋭い金属性の棘で、鎧《よろ》われたところの環である。意外な利器、素晴らしい手並み、しかも呼吸の辛辣さ、武道以外の神妙の武道!
「あっ」と叫んだは小一郎で、微塵に下頤を叩っ壊され、上下の歯を吹き飛ばし、舌を噛み切り血嘔吐《ちへど》を吐き、グ――ッ背後態《うしろざま》にへたばったなら、ヤクザな武士と云わなければならない。何んの小一郎が、そんな武士なものか、「あっ」と叫んだ一刹那、大略《おおよそ》二間背後の方へ、束《そく》に飛び返っていたのである。
柄へ片手はかけたものの、抜こうともせず悠然と、吉次の様子を眺めやった。
すると吉次は、一本足で立ち、高々と松葉杖を振り上げたが、姿勢の立派さ、驚くばかり、地へ生え抜いた樫の木だ。と、そろそろと松葉杖を、下へ下へと下ろして来た。トンと突くと倚《よ》っかかり、して云い出したものである。
「見事、さすがは、一式氏、よく避けましたな、拙者の一撃! 百に一人もなかった筈だ。だが……」と云うとピョンピョ
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