神秘昆虫館
国枝史郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)鐘巻流《かねまきりゅう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)阪東|小篠《こしの》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)益※[#二の字点、1−2−22]
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        一

「お侍様というものは……」女役者の阪東|小篠《こしの》は、微妙に笑って云ったものである。「お強くなければなりません」
「俺は随分強いつもりだ」こう答えたのは一式小一郎で、年は二十三で、鐘巻流《かねまきりゅう》の名手であり、父は田安家《たやすけ》の家臣として、重望のある清左衛門であった。しかし小一郎は仕官していない。束縛されるのが厭だからで、放浪性の持ち主なのである。秀でた眉、ムッと高い鼻、眼尻がピンと切れ上がり、一脈剣気が漂っているが、物騒というところまでは行っていない。中肉中|丈《ぜい》、白色である。そうして性質は明るくて皮肉。
「どんなにあなたがお強くても、人を切ったことはございますまい」阪東小篠は云い出した。
「泰平の御世《みよ》だ、人など切れるか」
「では解らないではございませんか。……はたしてお強いかお弱いか?」
「鐘巻流では皆伝だよ。年二十三で皆伝になる、まあまあよほど強い方さ」一式小一郎は唇を刎《は》ね、ニヤニヤ笑ったものである。
「お侍様というものは、お強くなければいけません」
「だからさ、強いと云っているではないか」
「ねえ、あなた」と阪東小篠は、そそのかす[#「そそのかす」に傍点]ように云い出した。
「一度でも人をお切りになった方は、度胸が決まると申しますねえ」
「どうやらそんな話だな」
「お侍様というものは、度胸がなければいけませんねえ」
「云うまでもないよ」と小一郎は笑止らしく横を向いた。
「あなたに度胸がありますかしら?」
「あるともあるとも大ありだ」
「人を切ったこともない癖に」
「小篠!」と云うと小一郎は、ちょっと睨むように相手を見た。「何か目算がありそうだな」
「何んの何んのどう致しまして」小篠は例によって笑ったが、微妙な笑いであると共に、吸血鬼《バンパイヤ》的の笑いでもあった。「ねえ、あなた、ただ妾《わたし》はこう云いたいのでございますよ。――すべて女というものは、男が度胸を見せた時、すぐ飛びかかって行くものだとねえ」
「うむ、惚れるということか?」
「はいはいさようでございます」
「なるほど」と云ったが小一郎は、いくらか物憂そうに考え込んだ。と、話題をヒョイと変えた。
「それはそうとオイ小篠、南部集五郎はやって来るのかな?」
「よくお呼びしてくださいます」
「あいつも根気がいい方だなあ」
「ホッホッホッホッ、あなたのように」
「そうさ、俺だって根気はいいよ。……ところで小篠、どっちが好きだな?」
「南部様もそんなことをおっしゃいました。――一式|氏《うじ》とこの拙者と、どっちにお前は惚れているかなどと」
「で、どっちに惚れているのだ?」
「どっちがお強うございましょう?」
「ふふん、それでは強い方へ、お前はなびく[#「なびく」に傍点]というのだな?」
「そんな見当でございます」小篠は妖艶にニッコリとした。
「そうか」
 と云うと一式小一郎は、ズイとばかりに立ち上がった。「小篠、それではまた会おう」
「もうお帰りでございますか」
「うん」
 と云うと部屋を出た。
 ここは深川の、桔梗《ききょう》茶屋の、その奥まった一室である。一人になった阪東小篠は、心の中で呟いた。
「南部さんにも云ったものさ。人一人お切りなさいましと。……妾《わたし》のためにお侍さんが、罪もない人間を叩っ切る! ああどんなにいいだろう! そこまで妾に惚れてくれなければ妾の方だって惚れてはやらない。お二人の中でサアどっちが、希望《のぞみ》を叶えてくれるかしら? いい見物だよ、待っていよう」

 桔梗茶屋を出た小一郎は、考えながら歩いて行く。
「小篠という女、俺は好きだ。美しい上に惨酷性がある。完全な女というものさ。惨酷性のない女なんか、女ではなくて雌だからなあ。……それにしても随分|手強《てごわ》い女だ。俺は半年も呼びつづけたかしら? それで未だにうんと云わない。……その上とうとう本性を現わし、人を切れなどと云い出してしまった。……いかにあいつのためとは云え、罪もない人間は切れないなあ。……そう云っても人を切らなければ、手に入れることは出来ないだろう。……そうしてまごまごしている中に、あの恋仇の南部奴に、かっ[#「かっ」に傍点]攫われまいものでもない。こいつだけはいかにも残念だなあ。……それはそうとここはどこだ?」
 四辺《あたり》を見廻わすと小梅田圃で、極月十日の星月夜の中に、藪や林が立っている。

        二

「これは驚いた」と小一郎は、思わず足をピタリと止めた。
「いかに考えて歩いたとはいえ、小梅田圃へ出ようとは! こいつ狐につままれたかな?」
 いやそうでもなさそうである。
「寒い寒い、急いで帰ろう」歩き出したがまた考えた。「だが全く竹刀《しない》の先で、ポンポン打ち合った剣術は、実戦の用には立ちそうもないなあ。……人間一人サ――ッと切る! 手答えあって血の匂い! ヒーッという悲鳴、のた[#「のた」に傍点]打つ音! ……悪くないなあ悪くないなあ。……一度辻切りをして見たいものだ」
 ふと小一郎は誘惑を感じた。
「切るにしても女や町人はいけない。うんと[#「うんと」に傍点]屈竟な武士に限る!」
 考えながら歩いて行く。と、行手に藪があり、ザワザワと風に戦《そよ》いでいる。その、裾辺まで来た時である、
「む、こいつは可笑《おか》しいぞ」小一郎はスッと後へ退《の》き、ジ――ッと藪を隙《す》かして見た。
 何んにも変ったことはない。が、小一郎には感ぜられるらしい。小首を傾《かし》げたものである。
「どいつかいるな! 刀を按じて!」
 迫身《ハクシン》ノ刀気《トウキ》ハ盤石ヲ貫ク、心眼察スル者《モノ》則《スナワ》チ豪《ゴウ》――鐘巻流の奥品《おうぽん》にある。その刀気を感じたらしい。で、寂然と動かなかった。
 不意に小一郎は左手《ゆんで》を上げ、鞘ぐるみ大刀を差し出したが、柄《つか》へ手をやると二寸ほど抜き、パチンと鍔鳴りの音をさせた。
 と、黒々と藪を巡り、一個の人影が現われた。
「さすがは一式小一郎氏、拙者のいるのを察しられたと見える」
「や、貴殿南部氏か!」
「さよう」というと南部集五郎は、二歩《ふたあし》ほど前へ進み出たが、「尾行《つ》けて参った、深川からな」
「ははあさようか、何んのご用で?」小一郎は油断をしなかった。
「率直に申す! お立ち合いなされ……」
「ほほう」と云ったが小一郎は、一つの考えを胸へ浮かべた。
「さては貴殿におかれても、阪東小篠にけしかけられ[#「けしかけられ」に傍点]ましたな?」
「では貴殿にも?」と南部集五郎は、いささか興醒めたというように、
「それでは益※[#二の字点、1−2−22]恰好というもの、遁《の》がしはせぬ、お立ち合いなされ!」
「さようさ、こいつは遁がれられまい」――だがにわかにクックッと笑った。「それにしても武士道は廃《すた》れましたな」
「何故な?」と集五郎はトホンとした。
「元亀天正の昔なら、女を賭けては切り合いませんよ」
「これはいかにも」と南部集五郎も、胸に落ちたか笑い出した。
「アッハハハ御世の有難さで」
「ええと今年は天保十年、文化からかけて文政と、武士ども柔弱になりましたな」悠々とこんなことを云い出した。
「これこれ一式氏一式氏、何を云われる、つまらないことを! 命の取りやり、さあ参るぞ!」次第に急《せ》くのは集五郎である。
「心得ておる!」と小一郎は、尚悠々と云いつづけた。「拙者剣侠を志してな、上《かみ》にも仕えず二十三の部屋住み、そこで長剣を横たえて、千里に旅しようと思っていました。ところがとうとうおっこち[#「おっこち」に傍点]ましたよ、あの小篠という河原者にな」
「抜け!」と集五郎は威猛高《いたけだか》である。「ごまかす気だな、卑怯千万!」
「剣侠も女にはまって[#「はまって」に傍点]は」と小一郎はかまわず云いつづける。
「いやはや一向値打ちござらぬ」
「チェッ」と集五郎は舌打ちをした。「これ臆したな! 一式小一郎!」
「剣より女の方が魅力がある」
「何を馬鹿な! それがどうした」
「そこで俺は徹底する」
「え?」と集五郎は一歩|退《の》いた。
「人を切れという小篠の言葉、それに手頼《たよ》って徹底する! 人を切る! 貴様を切る! 女を取る! 悪事をする! 拙者悪剣に徹底する! これ、集五郎!」とヌッと進んだ。「飛び込んで来たな、よいところへ! 俺はな、俺はな!」とまた進んだ。「待っていたのだ! 辻切りの相手を! ……参るゾーッ」と声を掛けた。
 はじめての大音、野面を渡り、まるで巨大な棒のように、夜の暗さを貫いた。
 同時に飛び退いた小一郎は、引き抜いた下緒をピューッと振り、一つ扱《しご》くと早襷《はやだすき》! 袖が捲くれて二本の腕が生白くニュッと食《は》み出したが、つづいて聞こえたは鞘走る音だ。と、にわかに小一郎の体《からだ》がシーンと下へ沈んだが、見れば右足を前へ踏み出し、膝から曲げて左足を敷き、腰を落したは蟠《わだかま》った竜! 曲げた膝頭の上二寸、そこへ刀の柄をあて、斜めに枝を張ったように、開いて太刀をつけたのは、鐘巻流での下段八双! 真っ向からかかれば払って退け、突いて来れば搦み落とす、翩翻《へんぽん》自在の構えである。星を刻むような鋒止先《きっさき》、チカチカチカチカと青光る。居付かぬように動かすのである。ブ――ッと剣気そこから湧き、暗中に虹でも吹きそうである。

        三

 だが南部集五郎、こいつも決して只者ではなかった。東軍流ではかなりの手利《てき》き、同じく飛び退くとヌッと延《の》し、抜き持った太刀|柄《づか》気海へ引き付け、両肘を縮めて構え込んだが、すなわち尋常の中段である。
「なるほど」と呟いたは小一郎で、「かなり立派な腕前だな。だがこの俺の敵ではない。よし」と云うと揶揄し出した。「さあ南部氏、かかってござれ! 立っているばかりが能ではない。お揮いなされ、そのだんびら[#「だんびら」に傍点]を! ちょうど星空だ光りましょうぞ! 廻わり込みなされ、右の方へ! すると拙者は左へ廻わる。と、ご両人ぶつかり[#「ぶつかり」に傍点]合う。そこでチャリ――ンと一合の太刀! ナーニ二合とは合わせませんよ、一合でちゃ[#「ちゃ」に傍点]アんと片が付く。もちろん貴殿が負けるのさ。それ石卵は敵しがたし! 唐人も時にはうまいことを云う。石と卵とぶつかれ[#「ぶつかれ」に傍点]ば、間違いなく石の方が勝ってしまう。拙者が石で貴殿が卵、さあ卵|氏《うじ》、卵氏はずんで、飛び込んでおいでなされ」喋舌りながらも考えた。「俺は案外大胆だな、今夜が最初の実戦だが、大して怖くも恐ろしくもない。うむ、これなら人間が切れる。……よしよしこっちから迫《せ》り詰めてやれ」
 足の爪先|蝮《まむし》をつくり、土を刻んでジリジリと、廻わりも込まずに前へ出た。
 次第に後退《あとじ》さる集五郎、いわゆる気勢に圧せられ、ともすると太刀先が上がろうとする。上がったが最後、「突き」が来る。そこで押し静め、押し静め、盛り返して一歩出た。と、小一郎は一歩引いた。と、集五郎また一歩! と、小一郎一歩退がった。「しめた」と考えた集五郎、相手が「釣手《つりて》」で退くとも知らず、ムッと気息、腹一杯、籠めると同時に躍り込んだ。両肘を延ばし、太刀を上げ目差すは小一郎の右の肩、そいつをサッと左袈裟!
「駄目だよ」と小一郎は一喝した。瞬間に鏘然《しょうぜん》たる太刀の音! つづいて大きく星空に、一つの楕円が描かれた。すなわち一式小一郎が敵の刀を払い落とし、身を翻えすと片手切り、大刀宙
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