へ刎ねたのである。こいつが落ちれば集五郎の首は、斜《はす》に耳から切られただろう。
 その際《きわ》どい一髪の間だ、女の声が聞こえて来た。
「蝶々をご存知ではございますまいか」
 美しい清浄な声であった。ス――ッと小一郎の心から、殺伐な邪気が抜けてしまった。
 と、また女の声がした。
「永生《えいせい》の蝶でございます。……蝶々をご存知ではございますまいか」
 どこにいるのだろう、声の主は? 木立があって、藪があって、後は吹きさらしの、小梅田圃。女の姿などどこにも見えない。それにもかかわらず女の声は、すぐ手近から聞こえるのであった。
「もしご存知でございましたら、昆虫館までお届けください」
 するとどうだろう、それに続いて、老人の声が聞こえて来た。「娘よ、駄目だよ、永生の蝶、何んのこういう人達に、探し出すことが出来るものか」
 非常に威厳のある声であった。手近の所から聞こえて来る。だがやっぱり姿は見えない。
「人殺しをしようという人間に、永久に生きる神秘の蝶が、何んの何んの探し出せるものか」老人の声がまた聞こえた。「さあ娘よ、そろそろ行こう」
「はい、お父様」と女の声がした。「それでは他へ参りましょう」それから優しくもう一度云った。「お止めなさりませ……お侍様……殺生のことはね……さようなら」
 もうそれだけしか聞こえなかった。立ち去る足音もしなかった。声だけが突然土から生れ、倏忽《しゅっこつ》と空へ消えたようであった。
 風が少しく強まったらしい。藪がザワザワと揺れ出した。
 刀を宙へ振り上げたまま、じっと聞き澄ましていた一式小一郎、で思わず溜息をしたものである。
「南部氏!」と呼びかけた。「今夜の立ち合い、止めにしましょう」
「よろしい」と云うと南部集五郎は落とした刀を拾い上げた。
 パチンと鍔音高く立て、刀を納めた小一郎、「お別れ致す」と云いすてると、町の方へスタスタ歩き出した。
「何んだろういったい永生《えいせい》の蝶とは?」小一郎は歩きながら思案した。
「昆虫館とは何んだろう?」何が何んだか解らなかった。「それにしても美しい声だったなあ。心が一時に清まってしまった。……若い美しい娘なんだろう。……逢ってみたいような気がするなあ」
 彼の屋敷は麹町にあった。そこへ帰って来た小一郎は、意外な話を聞いたものである。

        四

 意外の話を話したのは、他ならぬ清左衛門であった。
「それお前も知っている通り、この頃|田安《たやす》家と一ツ橋家とは、何彼につけて競争ばかりし、面白くない気勢が醸されているが、とうとう変なものを争うようになったよ」こんな調子に話し出した。「と云うのは、他でもない、江戸の四方五十里の内に、昆虫館という建物があり、永生《えいせい》の蝶と云われている雌雄二匹の蝶がいて、神秘の伝説を持っているそうだ。すなわち二匹を手に入れて、交尾をさせて子を産ませた者は、莫大な財宝を得られるとな。云い出したのは女|方術師《ほうじゅつし》、お前も知っておる鉄拐《てっかい》夫人だ。で今やお館《やかた》には、二匹の蝶を手に入れようと、苦心惨澹をしていられる。が、こいつは、馬鹿な話さ。永生とは何か、無限に生きることだ。ところが蝶は一年とは生きない。永生の蝶などある筈がない。云い出した人間が悪い。方術師とは由来道教の祖述者、虚無|恬淡《てんたん》を旨とする、老子の哲学を遵奉《じゅんぽう》するもので、無慾でなければならない筈だ。ところが例の鉄拐夫人、無慾でもなければ恬淡でもない。ヤレ錬金だの、仙丹だのと、金持ちになることと永生《ながい》きすることとを、セッセとお館に進めている、彼奴《きゃつ》決して方術師ではなく、精々のところ手品使い、初歩の忍術《しのび》の使い手に過ぎない。かような女を召し抱えたは、お館にとって不幸だが、これとてやはり競争から来ておる。一ツ橋家の方でまず最初に、蝦蟇《がま》夫人という女方術師を抱え、大仰に吹聴《ふいちょう》したからさ。で、噂による時は、一ツ橋家でも同じようなことを、その蝦蟇夫人が云い出したため、やはりそいつを手に入れようと、お館にはご苦心をされておるそうだ。今日も一日中御殿では、その評定で大騒ぎだった。困ったものだよ。こういう迷妄はな」
 こいつを聞いた小一郎が、驚きと興味とを感じたのは、説明するにも及ぶまい。膝を進めて訊いたものである。
「で、お父様、昆虫館は、どの辺にあるのでございましょう」
「云ったではないか、江戸を中心に、五十里以内の所にあると」
「確かなあり場所は解りませんので?」
「そうだよ、解っていないそうだ」
「鉄拐夫人が方術師なら、方術を用いて昆虫館のあり場所、すぐにも探し出してよさそうなもので」
「だからよ、彼奴《きゃつ》め、贋方術師さ」ここで清左衛門は眉をひそめたが、「もっとも彼奴《きゃつ》め、こんなことを云ったよ。『半島にして樹木森々、大地あって土地高燥、これ永生の蝶に適す』とな。アッハッハッハッ何を云うやら」
「昆虫館の持ち主は?」
「昆虫学者の老人だそうだ」
「美しい涼しい声を持った、娘と一緒ではございませんかな」
「え?」と清左衛門は眼を円くした。
「いえ何これはこっちの方の話で」こうはごまかし[#「ごまかし」に傍点]たが小一郎は、心の中では考えた。「不思議だな、随分不思議だ。小梅田圃でも永生の蝶! 家へ帰っても永生の蝶! あっちでもこっちでも昆虫館! 待てよ」と一層沈思した。「小梅で聞いた二つの声、その中一つは老人の声で、神々しいほどにも威厳があった。学者か宗教家か剣聖か、とまれ達識の人物でなければ、ああいう声は出せないものだ。永生の蝶を探していたっけ! ひょっとかするとあの声の主が、その昆虫館という建物の、持ち主などではあるまいかな。……いやいやそうではなさそうだ」小一郎は尚も考えた。「なにも昆虫館の持ち主なら、永生の蝶を探す筈はない。と云うのは蝶を持っているからさ、では全然別人かな。……いやいやそうでもなさそうだ」またも小一郎は考えた。
「たしかあの時娘の声で『もしご存知なら昆虫館まで、どうぞお届けくださいまし』と、こうハッキリ云ったのを聞いた。とすると、どうしても声の主達は、永生の蝶と昆虫館とに、関係あるものと見なければならない」ここで一層考えた。
「永生の蝶というようなものが、本当にこの世にいるのなら俺は是非とも手に入れたい。昆虫館というようなものが、本当にどこかにあるのなら、是非とも行って見たいものだ。しかしそれよりより一層、俺の心から殺伐の邪気を、ス――ッと一度に引っこ抜いてくれた、美しい涼しい声の主に、是非とも逢って見たいものだ。全くあの声はよかったよ。あんなにいい声の持ち主だ、素晴しい美人に相違ない。よし俺は探しに行く!」
 年が返って新年《はる》になった。天保十一年一月十日、その晴れた日の早朝《あさまだき》に、一式小一郎は屋敷を出た。
 深編笠に裾縁《すそべり》野袴、柄袋《つかぶくろ》をかけた蝋鞘の大小、スッキリとした旅装《たびよそお》い、足を入れたは東海道で、剣侠《けんきょう》旅へ出たのである。
「考えてみればあぶなっかしい[#「あぶなっかしい」に傍点]旅さ」小一郎は心中|可笑《おか》しくもあった。「たった一度だけ耳にした娘の声を手頼《たよ》りにして、声の主を探しに行くのだからなあ」
 長閑《のどか》にボツボツ歩いて行く。

        五

 川崎の宿まで来た時である。
「お武家様え、お馬に召しませ」可愛らしい娘の声がした。
 振り返った一式小一郎、見れば駄賃馬の手綱を取り、女馬子が立っていた。
「さようさな、乗ってもよい」
「これは有難う存じます。どこまでお供いたしましょう」
「そうさなあ、どこへ行こう」
「どこへでもお供いたします」
「さあてどこへ行ったものか、これ女馬子、どこへ行ったらよいな?」
「ホ、ホ、ホ、ホ」と笑ったが、「京大坂などいかさまのもので」
「ちと遠いな」と小一郎はこれも笑いながら考えたが、「これ女馬子、聞きたいことがある。土地高燥で半島で、木が茂っていて大きな池がある、そういう土地はあるまいかな?」
 すると女馬子はどうしたものか、チラリとその眼を険しくしたが、すぐに、表情を取り返した。
「三浦三崎の関宿《せきやど》など、似つかわしいように存ぜられます」
「ああなるほど、そこがよかろう。では関宿へやってくれ」
 小一郎はヒラリと馬へ乗った。ドー、ドー、ドーと馬子が云う。カパカパと馬が歩き出した。シャンシャンシャンと鈴が鳴る。旅が旅らしくなって来た。
「旦那様え」と女馬子は、手綱を引きながら話しかけた。「ご遊山旅でございますか」
「まあザッとその辺だ」
「ご遊山にはお寒うございます」ちょっと皮肉な調子である。
「寒さなどには驚かない」
「それはさようでございますとも」クスッと笑ったが話しかけた。「土地が高燥で半島で、木が茂っていて大きな池がある。そういう土地で旦那様は、何かをお探しなさいますので」
「何!」と云ったが小一郎は、かなり吃驚《びっく》りしてしまった。「どうしてお前、そんなことを聞くのだ!」
「そういう土地には色々の不思議が、沢山あるからでございますよ」
「この女馬子怪しいぞ」はじめて気が付いた小一郎は、仔細に女を観察した。立派な体格で品がある。肌は白く、髪は多く、顔の道具も充分|調《ととの》い、上流の商家の娘のようだ。特にその眼が美しい。情熱のためには理性など、うっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]しまいそうな眼付きである。上唇に黒子《ほくろ》がある。かえって愛嬌を添えている。「こいつは本物の馬子ではないな」小一郎はひそかに考えた。「女賊などではあるまいかな」
 すると女が声を掛けた。「大丈夫でございますよお武家様、妾《わたくし》悪人ではございません」
「ううん」と小一郎は参ってしまった。「何を申すか、つまらないことを!」
「お心で思っていらっしゃったくせに」
 これにも小一郎は参ってしまった。
「お前には解るのか、人の心が!」
「旦那様のお心なら解ります」
「これは驚いた。どうして解る?」
「好きなお方でございますもの」
「え?」とまたまた小一郎は、胆を潰さざるを得なかった。「お前は俺が好きなのか!」
「一眼で好きになりました」
「ヤレヤレ」と小一郎は苦笑した。「途方もないことになってしまった」
「恋しいお方のお心持ちだけは、恋している女に解ります」
「馬子! あんまり嚇《おど》してはいけない!」
「ホ、ホ、ホ、ホ、ご免遊ばせ」
 どうにも小一郎には見当が付かない。何んだろういったいこの女は? そこで身の上を調べることにした。
「ところでお前の名は何んというな?」
「はい、君江と申します」
「ああ、君江か。年は幾個《いくつ》だ?」
「はい、十八でございます」
「で、両親はあるのかな?」
「はい健康《たっしゃ》でございます」
「で、家はどこにある?」
「三浦三崎の関宿《せきやど》に」
「えッ」と小一郎はまた嚇《おど》された。「これ、あんまり嬲《なぶ》るものではない」
「いえいえ本当でございます」女馬子の声は真面目であった。
「妾《わたくし》の家は三浦三崎、関宿にあるのでございます。それで妾は旦那様を、妾の家へお連れしようと、こう思っているのでございます」
「それはいったいどうした訳だ?」
「旅籠《はたご》商売でございますもの」
「ははあそうか、旅籠屋か。……旅籠屋の娘が何んのために、馬子稼ぎなどをやっているのだ?」
「探していたのでございます」
「ふうんそうか、何者をな?」
「はい恋人をでございます」こう云うと女馬子はニッコリした。
「そうしてとうとう今日はじめて、恋しいお方を探し当てました。旦那様あなたでございますの」
 さて剣侠一式小一郎は、この女馬子に逢ったばかりに、意外の事件に続々ぶつかり、恋と怨《うら》み、悪剣と侠剣、暗黒と光明、迷信と智恵、神秘の世界と現実の世界へ、隠見出没することになった。

        六

 その日からちょうど五日経った。
 三浦三崎の君江の
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