家、その家号を角屋と云って、立派な構えの旅籠屋である。その門口からフラリと出たのは、他ならぬ一式小一郎で、口先に微笑を漂わせている。
「君江という娘、嘘は云わなかった。まさしく家は旅籠屋で、両親もピンピン健康《たっしゃ》でいる。そうして俺には親切だ。親切といえばあの君江、ほんとに俺を愛しているらしい。ちと困ったが迷惑でもない。明るくて快活でわだかまりがない。たしかに野に咲いた一輪の名花さ。そうは云ってもこの俺には、他に愛する女がある。姿形はまだ見ないが、小梅田圃の切り合いの最中、声だけ聞いたあの女だ。是非是非探しあてて逢って見たいものだ。……それはそれとしてその君江、大池のあるという森林の中へ、何故この俺を行かせないのだろう?」
立ち止まって四辺《あたり》を見廻わした。冬ざれた半農半漁の村が、一筋寂しく横仆《よこた》わっている。それを越すと耕地である。耕地の向こうが大森林で、檜や杉の喬木が、澄み切った空を摩している。
ヒョイと何気なく振り返って見た。「はてな?」と云ったのはどうしたのだろう? 十五、六人の侍が、いずれも立派な旅姿で、スタスタとこっちへ来るからであった。
「こんなに辺鄙な関宿などへ、ああも沢山の侍が、入り込んで来るとは只事でない。可笑《おか》しいなあ」と呟いたが、物蔭へ隠れて窺った。
それとも知らぬか侍達は、ガヤガヤ話しながら通り過ぎる。
「まずともかくも森林へな! 昆虫館があるかも知れぬ」こう云ったのは頬髯のある武士で、「なかったら今度は伊豆の方へ行こう」
「いわば我々は先乗りで、探りさえすればいいというものさ」こう云ったのは段鼻の武士。
「永生の蝶! 永生の蝶! はたしてそんな[#「そんな」に傍点]物ありましょうかな」こう云ったのは赤痣《あかあざ》のある武士。
「昆虫館も永生の蝶も、拙者には用はござらぬよ。小梅田圃で耳にした、美しい涼しい声の主、それに是非とも巡り会いたいもので」
こう云ったのは誰あろう、恋仇《こいがたき》南部集五郎であった。
タッタッと森林の方へ行ってしまった。
物蔭から出た小一郎は仰天せざるを得なかった。
「一ツ橋家の武士どもだな! 一ツ橋殿の命を受け、昆虫館を探しあてようと、さてこそやって来たらしい。……憎いは南部集五郎だ、またもや俺の恋仇となった。あの時耳にした声の主を、昆虫館の関係者と、彼奴《きゃつ》も目星を付けたらしい。……これはこうしてはいられない。誰が止めようと森林へ分け入り、彼奴《きゃつ》らより先に声の主を、目付《めつ》け出さなければ心が済まぬ」
彼らの後を追うように、サ――ッと小一郎は走り出したが、その時角屋の門口から、ヒョイと一人の娘が出た。
「あれ!」と叫んだが君江であった。「お父様大変でございます!」
「どうした?」と云いながら現われたのは、五十年輩の立派な人物で、英五郎と云って君江の父、この辺一帯の顔役で、髪は半白、下膨れの垂《た》れ頬《ほお》、柔和の容貌ではあるけれど、眼附きに敢為の気象が見える。
「小一郎様が森の中へ!」
「おお行かれたか! 困ったなあ」
「お父様! お父様! どうともして……」
「さあはたして助けられるかな!」
「ああ小一郎様のお身の上に、もしものことがあろうものなら……死んでしまいます! 死んでしまいます!」
「よし!」と英五郎は決心した。「ともかくも乾児《こぶん》を猟り集め、森中手を分けて探してみよう! ……しかし名に負う木精《こだま》の森だ、入り込んだが最後出られない魔所! 目付《めつ》かってくれればいいがなあ」
木精《こだま》の森の底の辺に、一つの岩が聳えていた。裾から泉が湧き出している。
側で話している二人の男女があった。一人は※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけた[#「たけた」に傍点]二十歳《はたち》ばかりの美女で、一人は片足の醜男《ぶおとこ》である。
「先生には今日もご不機嫌で?」こう訊いたのは片足の醜男。
「吉や、困ったよ、この頃は、いつもお父様には不機嫌でねえ」こう云ったのは美女である。
「それというのも大切な雄蝶を、お盗まれになってからでございましょうね」片足の男の名は吉次《きちじ》であり、そうして美女の名は桔梗《ききょう》様であり、その関係は主従らしい。
七
桔梗様の年は二十歳ぐらいで、痩せぎすでスンナリと身長《せい》が高い、名に相似わしい桔梗色の振り袖、高々と結んだ緞子《どんす》の帯、だが髪だけは無造作にも、頸《うなじ》で束ねて垂らしている。もっともそのため神々しく見える。いや神々しいのは髪ばかりではない。顔も随分神々しい。特に神々しいのは眼付きである。霊性の窓! 全くそうだ! そう云いたいような眼付きである。
山住みの娘などとは思われない。と云って都会の娘とも違う。勝れた血統を伝えたところの、高貴な姫君が何かの理由で、山に流されて住んでいる――と云いたいような娘である。永遠の処女! こう云ったらよかろう。物云いが明るくて率直で、こだわらないところが一層いい。
これに反して吉次の方は、かなり醜くて毒々しい。低い鼻、厚い唇、その上片脚というのである。しかし不思議にも智的に見える。学殖は相当深いらしい。筒袖を着て伊賀袴を穿き、松葉杖をついている。年は二十七、八でもあろう。
桔梗様は昆虫館主人の娘、吉次は館主の助手なのである。
「吉次や、そうだよ、お父様はね、あの雄蝶をなくして以来、ずっと不機嫌におなりなすったのだよ」桔梗様の声は憂わしそうである。
「私は不思議でなりませんなあ」吉次は松葉杖を突き代えたが、「だってそうじゃアございませんか、尋常な蝶ではございませんのに、どこかへ消えてなくなったなんて。……」
「でも本当だから仕方がないよ。現在蝶はいないんだからね」
「どうやら先生のお言葉によると、盗まれたように思われますが、さあはたしてそうでしょうか?」
「そうねえ、それはこの妾《わたし》にも、どうもはっきり解らないよ」
「ねえお嬢様、ようございますか、あの永生の蝶と来ては、盗めるものではございませんよ。こうも厳重に私達が、お守りをしているのですからね。それにお山は要害堅固、忍び込むことなんか出来ません」
「ところがそうばかりも云えないようだよ」いよいよ桔梗様は不安らしく、「この頃お父様問わず語りに『恐ろしい敵が現われた』と、こんなことを二、三度おっしゃったからね」
「へえ、そんな事を? 初耳ですなあ。で、いったいどんな敵なので?」
「今のところでは解らないよ。……それはそうと妾としては……」こう云うと桔梗様はどうしたものか、じーッと吉次の顔を見たが、「ああそうだよ妾としては、そんなお父様のおっしゃるような、恐ろしい敵がなかろうと、盗もうと思えば永生の蝶、誰にだって盗むことが出来ると思うよ」
「へえ、さようでございましょうか?」吉次は不安そうに訊き返した。
「お前にも盗めるし妾にも盗める」これは暗示的の言葉であった。
「何をおっしゃいます、お嬢様!」吉次は一足引いたものである。
「仲間うち[#「うち」に傍点]の者なら盗めるよ」
「ああそれではお嬢様は、仲聞のうちに裏切り者があって、そいつが盗んだとおっしゃるので?」
「そうもハッキリとは云っているんじゃアないよ。裏切り者になら盗むことが出来る、ただこんなように云っているまでさ」
「裏切り者などおりますものか」
「ほんとにほんとにそうありたいねえ」
ここで二人は黙ってしまった。吉次は足もとを見詰めている。泉を湛えた岩壺がある。人間一人がはいれるくらいの、円い形の岩壺である。湛えられた水の美しさ! 底まで透き通らなければならない筈だ。ところが底は真っ暗である。非常に深いに相違ない。水面に空が映っている。その空を小鳥が飛んだのだろう、水面に小鳥の影が射した。が、一瞬間に消えてしまった。吉次の視線が落ちている! その岩壺の水面へ!
と、大岩の背後《うしろ》から、呼びかける声が聞こえて来た。
「桔梗や、桔梗や、桔梗はいるかな?」
「はいお父様、ここにおります」
岩を巡って現われたのは、一種異様な老人であった。纏《まと》っているのは胴服《どうふく》であったが、決して唐風のものではなく、どっちかというと和蘭陀《オランダ》風で、襟にも袖にも刺繍がある。色目は黒で地質は羅紗、裾にも刺繍が施してある。その裾を洩れて見えるのは、同じく和蘭陀型の靴である。戴いている帽子も和蘭陀風で、清教徒でも用いそうな、鍔広で先が捲くれ上がっている。
八
帽子を洩れた白髪の、何んと美しいことだろう。肩に屯《たむろ》して泡立っている。広い額、窪んだ眼窩、その奥で輝いている霊智的の眼! まさしく碩学《せきがく》に相違ない。きわめて高尚な高い鼻、日本人に珍らしい希臘型《ギリシャがた》である。意志! 強いぞ! と云うように、少し厚手の唇を洩れ、時々見える歯並びのよさ、老人などとは思われない。角張った顎も意志的である。顔色は赧く小皺などはない。身長《みたけ》高く肉附きよく、腰もピーンと延びている。永らく欧羅巴《ヨーロッパ》に住んでいたが、最近帰朝した日本人――と云ったような俤《おもかげ》がある。非常な苦痛を持っていながら、強い意志力で抑え付け、わざと愉快そうに振る舞っている。――と云ったような態度がある。
「ここか、桔梗、吉次もいたか。俺はな、やっぱり諦めようと思う」岩の一所へ腰をかけ、こんな調子に話し出した。「なくなったものなら仕方がないよ。随分手分けして探したが、見付からないのだから止むを得ない。それにさ」と云うとやや皮肉に、「雄蝶一匹を手に入れたところで、全く役に立たないばかりか、それを手に入れた人間は、かえって禍《わざわ》いを蒙るのだからなあ。それで恐らく吃驚《びっく》りして、逃がしてしまうに相違ないよ。逃がせば蝶は帰って来よう。ああそうだよ、この山へな。で、そいつを待つことにしよう。よしんば永久に帰らないにしても、後に残っている雌蝶をさえ、握っていれば大丈夫だよ。神秘の秘密は解けるものではない。とはいえもちろん心掛けて、絶えず捜索はするんだなあ。私の云いたいのはこうなのさ。なくなった雄蝶ばかりに心を取られ、雌蝶の方を疎かにしては、かえってよくないとこういうのさ。桔梗、お前はどう思うな?」頤髯を撫したものである。
「これはごもっともに存じます」桔梗様の声は嬉しそうである。
「ようご決心が付きました。ほんとうにさようでございますとも。いずれは帰るでございましょう。待ちましょうねえお父様。……そうしてどうぞお父様には、以前《まえ》通りご機嫌のよいお父様となり、ご研究にお尽くしくださいまし」
「ああいいとも、そういうことにしよう。不機嫌になったって仕方がない。なかなか浮世というものは、思うようにはならないんだからなア。で、私はこれまで通り、愉快な明るい人間となり、セッセと仕事をやろうと思うよ。吉次、お前はどう思うな?」
すると吉次も安心したように、「まことに結構に存じます。先生に憂鬱になられましては、全く私どもがどうしてよいか、途方に暮れてしまいますので」
「アッハハハ、そうだろうて、主人の私が怒っていたでは、誰も彼も仕事がやりにくかろうて。よしよしこれからは快活にやろう。いつも明るく笑ってな」そこでもう一度笑ったが、取って付けたような笑い方であった。「さあさあ吉次、働け働け、行ってみんな[#「みんな」に傍点]を指図するがよい。ええと今日は温室の整埋だ。ええとそれから孵卵器の取り付け、ええとそれから蜂の巣の製造、忙《せわ》しいぞ忙しいぞ随分忙しい……はてな?」
と云うとどうしたものか、昆虫館主人は耳|傾《かし》げた。何かを聞こうとするらしい。森林を渡る風の音、岩から滴る泉の音、何んにも聞こえない、それ以外には……だが、どうやら昆虫館主人には、別の物音が聞こえるらしい。見る見る顔が険しくなり、気むずかしそうに眼が顰《ひそ》んだ。「どいつか来るな、邪魔をしに!」
「うるさいことでございますね」こう云
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