ったのは桔梗様で、おんなじように眼を顰めた。
「どっちの方角からでございます?」こう訊いたのは吉次である。
「麓の方からだ、関宿の方から」
「いつもの手段で追っ払いましょう」吉次は、松葉杖をポンと上げた。
「うむ、吉次、追っ払ってくれ!」
「ご免」
と云うと走り出した。非常に敏捷な走り方である。二本足を持った人間より、ずっとずっと敏捷である。
「桔梗、部屋へ行って茶でも飲もう。……どうもうるさい[#「うるさい」に傍点]よ世間の連中、時々住居を騒がせに来おる!」
「ほんとにうるそう[#「うるそう」に傍点]ございますねえ」
「じっくり研究さえさせてくれない。全く俗流という奴は、鼻持ちのならない厭な奴だ。好奇心ばかり強くてな。そうしてそいつの満足のためには、他人の迷惑など何んとも思わない」
「参りましょうよ、お部屋へね」
で、二人とも岩を巡り、奥の方へ姿を消してしまった。
トコトコトコトコと泉の音が、微妙な音楽を奏している。小鳥の啼音《なくね》が聞こえて来る。冬陽が明るく射している。静かで清らかで平和である。
だがこの平和を乱すべく、大乱闘の行われたのは、それから間もなくのことであった。
九
木精《こだま》の森を踏み分け踏み分け、一式小一郎は歩いている。
「一ツ橋家の武士達より、どうともして先に昆虫館を、目付《めつ》け出さなければ意地が立たない。だがどうにも歩きにくいなあ」
喬木がすくすくと聳えている。枝葉が空を蔽うている。昼だというのに陽が射さない。四方《あたり》が宵のように薄暗い、灌木や蔓草が茂っている。それが歩く足を攫《さら》おうとする。巨大な仆《たお》れ木が横仆《よこた》わり、それがやっぱり足を止める。丘のような大岩が転がっている。所々に古池がある。突然飛び出したものがある。純白の兎の群である。サラサラと枝を渡るものがある。幾匹かの野生の猿である。カーッ、カーッと啼くものがある。鳥のようでもあれば獣のようでもある。季節は一月、所は大森林、凍りつくばかりに冷々《ひやひや》する。ヒューッ、ヒューッと風の音がする。梢を渡っているのだろう。だが樹が密生しているためか、森の中には吹き込んで来ない。地面は凍てついてるらしい。その上を腐葉が蔽うている。で、ズボズボと足がはいる。
一式小一郎は傾斜面を、ズンズン上へ上がって行く。気が忙《せ》くので足が早まる。だが息切れのしないように、丹田へ力をこめている。
「考えてみればあぶなっかしい[#「あぶなっかしい」に傍点]ものだ」小一郎は心中で考えた。
「案内知らぬ森の中を、こんな塩梅《あんばい》にただむやみと、上へ上へと上がったところで、そのあるという大池へ、辿りつくことが出来るかしら? そうしてはたして大池の畔《ほとり》に、昆虫館があるかしら? 幸い大池と昆虫館とを目付け出すことが出来たとしても、あの美しい声の主を、発見することが出来るだろうか? ……だがマアそいつ[#「そいつ」に傍点]は考えまい。ただ歩くんだ歩くんだ! ただ進むんだ進むんだ!」
そこでズンズンと突き進んだ。と、森の木がまばらとなり、小広い一つの空地へ出た。一座の大岩が聳えている。
「はてな?」とその時小一郎は足を止めて耳を澄ました。その大岩に反響し、人の足音が聞こえたからである。どうやら大岩の向こう側から、こっちを目指して来るらしい。一人や二人の人数ではない。十五、六人の人数である。
「一ツ橋家の侍ども、ははあさてはやって来たな。さてどうしたものだろう?」――こうなっては他に思案もない。逃げるかもしくはぶつかる[#「ぶつかる」に傍点]ばかりだ。「どうなるものか、ぶつかってしまえ」
早くも決心した一式小一郎は、素早く四辺を見廻わしたが、足場を計るためだろう。「ちょうど幸い大岩がある。こいつを早速楯として、構うものか、叩っ切ってやろう」
及び腰をして待ち設けたが、それとも感付かぬ岩向こうの人数、ガヤガヤ喋舌《しゃべ》りながら近付いて来た。その時小一郎は声をかけた。
「ご用心!」とまず一声! それから凛々と云ったものである。
「あいやそこへ参られたは、南部集五郎殿をはじめとし、一ツ橋殿のご家中でござろう。その目的は昆虫館探し、何んとさようでござろうがな」ここでちょっと言葉を切り、先方の様子を窺った。
と、ひどく驚いたらしく、足音が止み声が絶えた。がすぐ南部集五郎の、物々しい声が聞こえて来た。
「そういう貴殿は何者かな? いかにも我々は一ツ橋家の家臣!」
そこで小一郎は声を上げた。
「南部氏だな、声で解る。拙者は一式小一郎、貴殿にとっては怨《うら》みあるもの。拙者にとっても怨みがある。小梅田圃では意外のことから、せっかくの果たし合いが中折れ致した。あの夜の続き、今日こそ果たそう。さて次に」と小一郎は、ここで一段声を張ったが、「一ツ橋家の爾余の方々、お互い私怨とてはござらぬが、拙者は田安家のまず家臣、貴殿方は一ツ橋殿の家臣、近来田安家と一ツ橋家、各※[#二の字点、1−2−22]方にもご存知通り、事ごとに競争致しております。そこで」と云うと小一郎は投げたような調子に言葉を変えた。
「お館同志の競争は、家臣同志の競争でござる。そいつが迫《せ》り合うと喧嘩になる。喧嘩のどんづまり[#「どんづまり」に傍点]は果たし合い! これはもうもう決まった話だ。そこで喧嘩! そこで果たし合い! 勝負だア――」
と威嚇的に叫んだ。それからじいいっ[#「じいいっ」に傍点]と耳を澄ました。向うからは何んの返辞もない。だが何んとなく騒がしい。どうやら用意をしているらしい。
「敵は多勢、俺は一人、多少詭計を用いずばなるまい」こう考えた小一郎はわざと厳《いか》めしく声をかけた。「拙者は大岩のこっちにおる。いつまでもここでお待ち受け致す。左からなりと右からなりと、ご随意にかかっておいでなされ。左右同時にかかられるもよかろう。岩を巡って、さあさあ参られい」
スルリと刀を引き抜くと、スルスルと大岩の左の角、そこまで行くと腹這いになった。
十
腹這いになった小一郎は地面へ耳をおっ[#「おっ」に傍点]付けたのは、この方面から一ツ橋家の武士ども、幾人来るか足音を、聞き澄まそうとしたのである。と、忍びやかに腐葉を踏み、近寄って来る足音がした。「うむ、大略《おおよそ》七、八人だな。……ははあそうすると反対側からも、七、八人がやって来るらしい。お誂え通りだ。左右から廻わり、腹背を衝こうとするらしい。よし」と尚も聞き澄ました。「三間……二間……立ち止まったな。……また歩き出した、怖そうに。……来たな!」
と小一郎は飛び上がったが、飛び上がった時には飛び出していた。上げた一刀、片手切りの呼吸、カーッと掛けたは喉的破音《こうてきはおん》、狙いは感覚、サーッと切った。
「ガッ」という悲鳴、倒れたのは、真っ先に進んで来た段鼻の武士で、頭の鉢を右から斜《はす》、左の眼頭まで割り付けられた。
「おッ」と叫んだは赤痣のある武士、二番手として進んで来たが、凄い気合、素晴しい剣技、目前味方の斃されたのを見ると、居縮《いすくん》だように棒立ちになった。そこを目掛けて小一郎は取り直した大刀、柄を廻わし、一歩踏み出すと身長《せ》を縮《すく》め、相手の左胴を上斜めに、五枚目の肋《あばら》六枚目へかけ、鐘巻流での荒陣払い、ザックリのぶかく[#「のぶかく」に傍点]掬い切った。
痣のある武士、ムーッと呻くと、ポタリと刀を落としたが、全身を弓のように蜒《うね》らせると、ヒョロヒョロヒョロヒョロと前へ出た。
と、小一郎は、抑えた呼吸で、ヒョイと刀を手もとへ引いた。連れてドッタリ斃れた敵、ドクドクドクドクと流れる血、下は腐葉だ、滲み込んでしまった。瞬間に二人を討って取られ、浮き足立った一ツ橋家の武士達、思わずタジタジと引くところを、
「参るゾーッ」と声をかけ、ヌッと右足を踏み出したのは、追い迫る気勢を示したのである。胆を奪われた一ツ橋家の武士ども、刀を引くと一息に、元来た方へ逃げてしまった。
追っかけると見せて身を翻えし、岩角まで飛び返った小一郎は一瞬耳を澄ましたが、「いるな」と呟くと一躍した。はたして七、八人そこにいた。真っ先に立ったは頬髯のある武士で、突然小一郎に飛び出され、ギョッとして一足引くところを、
「参るゾーッ」と例の大音、まず一喝くれて置いて、毬のように弾んで飛びかかったが、刀の柄頭《つかがしら》を胸へあて、肩を縮めたも一刹那、うむ[#「うむ」に傍点]と突き出した双手《もろて》突き、極《きま》った! まさしく! 敵の咽喉へ! だがその間に敵の一人、右手から颯《さっ》と切り込んで来た。何んの驚く、飛び返ると、狙いを外した敵の一人、自分の力に自分から押され、トントンと二、三歩前へ出た。背が低まって右の肩が、さも切りよげに小一郎の、眼の前三尺へ泳いで来た。そこをすかさず小一郎は、刀を上げると横撲り、軽くスッポリと切り付けた。
右腕を肩から落とされて、悲鳴を上げるとキリキリキリと、独楽《こま》のように二、三度廻わったが、まずグンニャリと腰を砕き、すぐに横倒しに倒れてしまった。
ここでも一式小一郎は瞬間に二人を斃したのである。二人斃された一ツ橋家の武士ども、太刀を構えたまま後退《あとじさ》り、次第次第に下がったが、岩角まで行くと背中を見せ、一|斉《せい》に岩蔭へ引いてしまった。
左右の敵を左右に追い込み、一人となった小一郎はここで気息を抜くような、そんな不鍛練な武士ではない。ピッタリと大岩へ背をもた[#「もた」に傍点]せ、敵、眼前にあるがよう、グッと前方を睨んだが、にわかにシーンと体を沈め、ヒョイと踏み出したは右の足だ、膝から曲げて左足を敷き、曲げた膝頭の上二寸、そこへ刀の柄をあて、斜めに枝を張ったように、開いて太刀を付けてしまった。得意の構えだ、下段八双。棒の「掻《か》い手《で》」から編み出された鐘巻流では必勝の手。さてそれからユルユルと、頭《こうべ》を巡らすと右手を見た。が、はたして一ツ橋家の武士ども、岩角を巡って現われたが、以前に懲りたか遠廻わりをし、タラタラと正面数間の彼方へ、一列に並んで構え込んだ。
「ほほう来たな」と呟いたが、小一郎は頭を巡らすと、左手の方をゆるやかに見た。思った通りだ、岩角を巡り、一旦逃げた一ツ橋家の武士ども、同じく遠廻わりに廻わりながら、タラタラと正面数間の彼方へ、一列を作って立ち並んだ。
つと進み出た武士がある、「一式氏」と声を掛けた。余人ではない。南部集五郎だ、年の頃は二十七、八、赧《あか》ら顔で大兵肥満、上身長《うわぜい》があって立派である。眉太く、眼は円《つぶら》、鼻梁長く、口は大きい。眉の間に二本の縦皺、これがあるために陰険に見える。「一式氏」ともう一度呼んだが、嘲笑《あざわら》うように云いつづけた。「悪縁でござるな、貴殿とは! 一人の河原者を争って、小梅田圃で切り合ったばかりか、どうやら今度は姿さえ知れない、美しい声の持ち主を、争わなければならないようで。……と云うとあるいは貴殿には、さようなものはとんと[#「とんと」に傍点]存ぜぬ。争いの種を阪東小篠、ないしは神秘な昆虫館……などと云われるかも知れないが、何んの何んの、そんなことはござらぬ。小梅田圃で聞いた声、あの美しさを耳にしては、どんな人間でも引き付けられますて。現に」と云うと集五郎は、好色漢らしい厭らしい、不快な笑いを浮かべたが「現に」ともう一度、繰り返した。「拙者においても引き付けられ、その声の主を目付けようと、ここまで出張って来たほどでござる。で、貴殿におかれても、やっぱり美しい声の主を、探しに来られたに相違ござらぬ。狂いましたかな。この眼力! ……だがそれにしてもこんな所で、貴殿にお逢いしようとは、いささか意外でございましたよ。そこでいよいよ悪縁と云う、この言葉がピンと響きますて。……が駄弁はこのくらい。……方々!」というと集五郎は、味方の勢《ぜい》を振り返った。
十一
味方を振り返った集五
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