おそ》くまで起きていますと、そうお師匠様がおっしゃるので、パッチリコと申すのは反対なので、眼をパッチリコと開けるようにと、こういう意味なのでございますよ。朝寝坊をしておりますと、そうお師匠様がおっしゃいますので、ところでグルグルチンですが、谷川へ行ってグルグルと、顔を洗ったら音を立てて、チンと鼻をかむ[#「かむ」に傍点]がいいと、こういう意味なのでございますよ。はいはいみんな何でもないことで」
 なるほど説明を聞いてみれば、何んでもないことではあったけれど、鼠の衣裳に腰衣《こしごろも》を付けた、縹緻《きりょう》のいい愛くるしい鯱丸が、真面目な顔をして話すのであった。
 どうにも桔梗様には可笑《おか》しかった。で明るく笑った時、その明るさを抑えるかのように、陰気な不気味な梵鐘《ぼんしょう》の音が、盆地の一所から聞こえて来た。

        五十一

「昆虫館再興は山尼《やまあま》の徒の為なり」
 こう古文書に記されてある。
 同じ山尼の連中によって、昆虫館は閉鎖されたのであったが、それがふたたび興されたについては、重大な理由がなくてはならない。
 秩父連山の山尼の部落の、深い谷の底から鐘の聞こえたのは、衆を集める合図であった。で無数の山尼達が、めいめいの天幕から走り出て、谷底の方へ走って行ったが、それは壮観というべきであった。切り下げ髪を風に靡《なび》かせ、また腰衣《こしごろも》を風に靡かせ、数百の尼が走って行く。
 その谷の底の大岩の上に、一人の山尼が立っていたが、他でもない高蔵尼であった。
「物見の者から知らせが来た。昆虫館では衆を集め、戦いの準備をしているそうだ。だから棄てては置かれない。昆虫館へ押し寄せることにしよう」
 これが高蔵尼の命であった。
 それから行われた行軍は、非常に面白いものであった。一挺の山駕籠へ高蔵尼を乗せ、それを囲んで有髪の尼達が、秩父連山を縦断して三浦三崎の方へ出かけたのである。
 ところが一方昆虫館でも、一つの事件が起こっていた。
 と云ったところで変わったことでもなく、戦いの準備をしているのであった。
 隅田のご前の部下の者や、七福神組が走り廻わり、それの準備をやっているのであった。
「さあ壕を掘れ、鹿砦《ろくさい》をつくれ、墻壁《しょうへき》をこしらえろ、掩護物《えんごぶつ》を設けろ、小杭を打ち込め、竹束を束ねろ! 武器の手入れだ、武器の手入れだ! 槍を磨け、刀を磨け、鉄砲の筒を掃除しろ。……一手は森林の裾へ行け。そこへ幕営をつくるがいい。一手は森林の底へ行け。そこへ地雷を伏せるがいい。……火薬袋に注意しろ。点火の手筈の狂わぬよう。……谷川へは橋をかけるがいい。……物見だ物見だ、物見に行け!」
 指揮しているのは、隅田のご前で、昆虫館の建物の前へ、牀几《しょうぎ》を出して腰かけている。
 人々が八方へ駈け巡る。伝令が四方へ飛んで行く。遠くで鉄砲の音がする。恐らく試射をやっているのであろう。と、ゴーッという音がした。水の流れる音である。槓杆《こうかん》を動かしたに相違ない。そこで湛えられた湖水の水が、森林をひらいて流れたのであろう。
 と、麓の方角から、一団の人数が上って来た。醜い不具者の群である。ずっと以前に昆虫館にいて、閉ざされると共に立ち去ったのだが、昆虫館の大事を聞き、今や集まって来たのである。
 ひっそりと寂しかった昆虫館は、こうして活気を呈したが、むしろ活気というよりも、殺気と云わなければならないだろう。
 だがこういう殺気の場を、一向無関心に横目に見て、一人働かない人物があった。他ならぬ片足の吉次である。
「立ち廻われ立ち廻われ騒げ騒げ。が、この俺は騒がないよ」
 岩から落ちて来る滝の前に佇《たたず》み、滝壺の中を睨んでいる。
 と、「吉次さん」と云う声がして、ヒョッコリ現われた女がある。他ならぬ弁天松代であった。
「ヨー。これは松代さんか」
 吉次はニヤニヤ笑い出した。群《あつ》まって来た連中の中で、吉次の一番好きなのは、この弁天松代だからである。
「松代さん相変わらず綺麗だなあ」
「ああいつだって綺麗だよ」松代は並んで佇んだが、「どうしてお前さん働かないんだい」咎めるような調子である。
「一本足じゃ働きもならない」
「そりゃアそうだねえ。もっともだよ」
「それに俺《おい》らは不賛成なのさ」
「何んのことだよ、不賛成とは!」
「むやみと騒がしく立ち廻わることさ」
「だって戦いが始まるんじゃないか」
「さあその戦争だが嫌いなのさ」
「成るようにして成ったんだから、どうにも仕方がないじゃアないか」
「へえ、そりゃアどういう訳だえ」
「だって、山尼の連中は、永生の蝶が欲しいのだろう? ところがその中一匹の方は――つまり盗まれた雄蝶の方だが、どんなことをしたって目付からないのだよ」ここで吉次は変に笑ったが、「松代さんだからちょっと明かすが、盗まれた永生の蝶のありかを、一人だけ知っているものがあるのだよ」

        五十二

「へえ、そりゃア誰だろうね?」さも不思議そうに松代は訊く。
「さあ何奴が知っているかな」吉次は依然として笑っている。と、話題を一変させ、「桔梗様もさらわれた[#「さらわれた」に傍点]ということだの」
「山尼の連中がさらって行ったのさ」
「つまり囮《おとり》に取ったってわけだな」
「え、何んだい、囮というのは?」
「つまり桔梗様を返すから、永世の蝶を引き渡せと、こう連中は云うつもりなのさ」
「ああ山尼の連中がね。そうすると桔梗様は可哀そうだねえ」
「可哀そうには相違ないが、どうも桔梗様という人は、少し見識が高すぎたから、たまには酷い目に逢った方がいいよ」
「見識の高い方がいいじゃアないか」
「そうだろうかなあ、そうだろうかなあ」吉次は何んとなく不満そうである。「が、見識の高い人は、他人の思いなどを受け入れないからなあ」
「おや」と松代は妙に思った。で、黙って吉次を見た。
 滝が涼しそうに落ちている。小さな小さな滝なのである。滝壺の水面は泡立っている。日光が横から射しているので、滝の泡沫《しぶき》に虹がかかり、何んとも云えず美しい。
「そりゃアそうと、ねえ松代さん、俺《おい》らはお前さんが好きなんだよ」こんなことを云い出した。気恥ずかしそうなところがある。
「おや」ともう一度思ったが、松代は故意《わざ》と何気なく、「妾もお前さんが大好きさ」
「ふうん、何んだか解るものか」こうは云ったものの嬉しそうである。
「色気のないところが好きなんだよ」
「ところで俺らはお前さんの、見識張らないところが好きなのさ」
「見識張られる身分じゃアないよ」
「また俺らにしてからが、色気の出せる身分じゃアない」
「一緒にくらしたら面白かろうね」
「え」と云ったものの片足の吉次は、松代の顔を盗むように見た。「嬲《なぶ》っちゃアいけない。嬲っちゃアいけない」
「何んの妾が嬲るものか。本当のことを云ってるのさ」――だが嬲ってはいるようである。
「そうかなあ、そうかなあ」吉次は茫然《ぼっ》として考えたが、「俺《おい》らは醜男《ぶおとこ》で片輪者で、女に思われたことなんかない。俺らの方では想ったがな。でもその女は見高《けんだか》で、相手にしようともしてくれなかった。……だから俺らはやったん[#「やったん」に傍点]だ。……だが俺らには金はある。少しばかり考えを運ばしたら、どっさり金を儲けることが出来る。半分手に入れているんだからなあ。……永生の蝶っていう奴は、水の中ででも活きられるのだよ。……」
「お金がありゃア尚いいねえ。楽な生活《くらし》が出来るんだからねえ……ほんとにお前さんにあるかしら?」窺《うか》がうような調子である。
「少し考えを運ばせさえすれば、莫大な金が手に入るのさ」
「ねえ、吉次さん」と寄り添った。
「うん」と云ったが片足の吉次は、凝然と滝壺を見下ろしている。
 ひん[#「ひん」に傍点]曲がった美しい劇的光景! それはこう云ってもいいだろう。一人は片足の醜男である。一人は妖艶な女賊である。それが互いにもたれ[#「もたれ」に傍点]合い、滝壺を覗いているのである。
 大岩の背後には人声がする。戦闘準備の雑音もする。
 だがここばかりはひそやか[#「ひそやか」に傍点]である。虹が相変わらず懸かっている。

        五十三

 その日の午後のことであったが、昆虫館の一室で、二人の老人が話していた。
「兄ごお前さんは不賛成だろうな」こう云ったのは隅田のご前。
「行くところまで行ったのだから、どうにも仕方があるまいよ」こう云ったのは昆虫館主人で、悩ましい表情が顔にある。
「兄ご夫婦の関係は、私には不思議でならないよ」隅田のご前が云ったのである。
「元からそうではなかったのだが、そういうことになったのさ」昆虫館主人は憂鬱《ゆううつ》であった。
「と云うのも永世の蝶からだろうね?」
「ああそうだよ」と昆虫館主人は、いよいよ悩ましい様子をしたが、「本はといえば扱い方の相違だ。見方の相違と云ってもいい。即座にあれ[#「あれ」に傍点]を役立てよう。――と云うのがあれ[#「あれ」に傍点]のやり方だったのだ。私はそれとは反対だった。まず飼って置いて様子を見よう――」
「どっちみち和睦《わぼく》をした方がいいよ」隅田のご前が不意に云った。
「和睦をしろとはおかしいではないか。こんなに戦備をして置いてからに」怪訝だというような表情である。
 隅田のご前は笑ったが、「和戦両様に備えたのさ。浮世は万事がこういかなければいけない」
「何も私だって争いたくはないよ。……が、向こうのやり口が悪い。……娘に罪はないのだからな」
「実の親子だ。逢いたかったまでさ。それでおおかた連れて行ったのだろう」
「私にはそうは思われない」昆虫館主人は首を振ったが、「威嚇の道具に使うのだろう。囮《おとり》に使おうとしているのだろう。永生の蝶を奪おうためにな」
「さあその永世の蝶という奴だが、兄ごは充分調べた筈だ」
「そうして未だにわからない」
「これから調べても解るまい」
「そうよなア、解らないかもしれない」
「では先方へくれてやるさ」
「一匹は取ったということではないか」
「芹沢の郷で取ったそうだ」
「もう一匹は不明なのだ。どこへ行ったかわからないのだ」
「ふうん、それは本当のことかな?」
「嘘は云わぬよ、盗まれたらしい」
「では先方へそういうことを、云ってやったらよかりそうなものだ」
「云ってはやったが信じないのだよ」昆虫館主人は苦々しそうにしたが、「どうしてもこの土地にいるというのだ」
 部屋は昔と変わりがない。和蘭陀《オテンダ》風に装飾《よそお》われている。壁に懸けられたは壁掛けである。昆虫の刺繍が施されてある。諸所《ところどころ》に額がある。昆虫の絵が描かれている。天井にも模様が描かれてある。その模様も昆虫である。戸外《そと》に向かって窓がある。その窓縁にも昆虫の図が、非常に手際よく彫刻《ほら》れてある。窓を通して眺められるのは、前庭に咲いている花壇の花で、仄《ほの》かな芳香が馨《にお》って来る。長椅子、卓子《テーブル》、肘掛椅子、書棚の類が置いてある。床には絨緞が敷いてあり、それには昆虫の模様が織られ、その地色は薄緑である。
 黒檀細工の卓子《テーブル》の上に、幾個かの虫箱が置いてある。そうして例によって天井からも、無数の虫箱が釣り下げられてある。
 昔と何んの変わりもない。いくらか古びているばかりである。で、この部屋にあるものと云えば、学究的の静寂である。それも昔と変わりがない。
 と、不意に昆虫館主人が、かけていた椅子から立ち上がり、一つの虫箱を覗いたが、
「敏感な麝香虫が騒ぎ出した。……いよいよ山尼の一隊が、迫って来たに相違ない」
 こう云って窓まで身を寄せて行ったが、これも昔とそっくりであった。

 こういう事件の行われている頃、秩父連山の一所でも、風変わりの事件が行われていた。
 馬に乗った一式小一郎が、女馬子の君江に手綱をとらせ、谷の底を歩ませていたのである。
 その左側の谷の上を、
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