山駕籠を囲んだ同勢が、同じ方角へ進んで行く。冷泉華子の一隊である。
 と、右側の谷の上を、同じような同勢が辿っている。北王子妙子の一隊である。
「いや面白い旅行だわい」こう云ったのは一式小一郎で、愉快そうな笑いを漂わせている。「危機一髪、もういけまい。こう思った時現われたのが、あの田安家の勢なのだからなあ。それに牽制されたので、一ツ橋の連中にも討って取られず、両家の者に左右を守られ、こんな塩梅《あんばい》に旅が出来る。どうも浮世って皮肉なものだ」
「結構な皮肉でございます。時々こういう皮肉があるので、ほんとに私達は助かります」
 こう云ったのは君江である。君江の様子も愉快そうである。
「一ツ橋勢が谷へ下り、俺達を討って取ろうとすれば、田安家の連中が下りて来て、この俺達を救ってくれる。この俺達が谷を上り、田安の連中と一緒になろうとすれば、一ツ橋勢が追っかけて来る。そこでどうでも俺達とすれば、いつまでもこうやって谷の底を、辿って行かなければならないのさ」
「面白い身の上でございますよ。強い二つの大きな国に押し付けられておりながら、威張り巻くっている小さな国、それが私達でございますよ」
「俺達がちょっとでも間違うと、すぐに平均が崩れてしまう」
「私達が穏《おとな》しくしていれば、いつまでも現状はつづいて行きます」
「だから随分危険だとも云える」
「危険だからこそ面白いので」
「君江、相変わらず面白いことを云うな」
「あたりまえのことでございますよ」
「そのあたりまえということが、なかなかもって云えないものさ」
 谷底の道は辿りにくい。でも二人は辿って行く。

        五十四

 随分辿りにくい谷底である。大岩が諸所に盛り上がっている。藪や灌木が蔓《はびこ》っている。谷川が一筋流れていて、パッパッと飛沫をあげている。秩父名物の猿の群が、枝から枝へと飛び移り、二人を見ながら奇声を上げる。と、闇のような所へ出た。喬木が蔽うているのである。二人は先へ辿って行く。
 その時右側の谷の上から、ドッと鬨の声が湧き起こった。田安家の勢が一ツ橋家の勢へ、どうやら挑戦したらしい。と左側の谷の上から、それに答える鬨の声がした。一ツ橋勢が応じたものと見える。
 こうして二、三回鬨が上がったが、事件らしい事件も起こらなかった。
「面白いな」と小一郎。
「陽気でよろしゅうございます」
 ――で、三組の同勢は、先へ先へと進んで行く。目差すは同じ場所である。すなわち山尼の居場所である。
 先へ先へと進んで行く。
 だが先は続かなかった。
 遙か向うに盆地が見え、そこに点々と幾個《いくつ》かの天幕が日を受けて白く見渡された。
 それこそ山尼の部落である。
 谷を作っている左右の山も、盆地に向かって傾斜をなし、盆地に到って尽きている。谷も盆地で尽きている。
 で自然の勢いとして、田安家の勢《ぜい》も一ツ橋家の勢も、そうして君江も小一郎も、盆地で一緒にならなければなるまい。
 そういう盆地の中央にある、一つの大きな天幕の中で、桔梗様と鯱丸とは話していた。
 桔梗様を守護する山尼の徒が、十数人残っているばかりで、その他の無数の山尼達は、秩父の山にはいなかった。昆虫館をさして馳せ去ったのである。
「大変寂しくなりました」
 こう云ったのは鯱丸である。
「ほんとにひっそり[#「ひっそり」に傍点]としましたことね」桔梗様は何んとなく物憂そうである。
 天幕の中へ日が射している。それが桔梗様の顔を照らし、鯱丸のぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]を照らしている。
「どこへ行ったのでございましょうね?」
 鐘が谷の方で鳴り渡って、山尼の徒がそっちへ走って、そうしてそのまま大忙《おおいそが》しに、山を下って行ったことだけは、桔梗様にも解っていたが、その他のことは解らないのであった。
「わけの解らない連中なので、さあどこをさして行ったものやら」早熟《ませ》た口調で鯱丸が云う。
「ところで高蔵尼とおっしゃる方は、いいお方なのでございましょうね」
 芹沢の里の乱闘の際、突然高蔵尼に攫《さら》われて以来、そうしてこの土地へ来て以来、ただ親切にあつかわれるばかりで、高蔵尼という尼様の素性は、いまだに桔梗様には解らないのであった。
「口小言のうるさい婆さまで」鯱丸は依然として、口が悪い。「でも結構な婆様で」今度は鯱丸は褒めるのであった。
「それにしてもここの人達は、何をして生活《くら》しているのでしょう?」
 一月あまり住居してみたが、桔梗様には山尼の生活が、どうにも胸に落ちないのであった。毎朝毎晩看経をするのは、尼としては当然のことであったが、突然一同が打ち揃って、どこへともなく行くことがあった。托鉢に行くのだとも思われたが、そうでもないようなところもある。規律はいかにも整然としていて、女軍のようなところもある。そういえば武器さえ貯えている。
 今こそ秩父の山中にいるが、以前には信州や上州や、美濃や飛騨にもいたそうである。
 わけのわからない団体なのであった。

        五十五

 そこで鯱丸に訊いたのであった。
 ところが鯱丸の返辞たるやまことに、簡単なものであった。
「人里の人間を憎んでいる、尼さん達の集まりなので。時々行衛を眩《くら》ますのは、人里へ出て行って掠奪《りゃくだつ》をやるので。そうしてお師匠さんの素性はといえば、謀反人の血統だということなので」
 こう云われていよいよ桔梗様には、山尼の性質が解らなくなった。
 しかしそれよりも桔梗様にとっては、一式小一郎の身の上が、心にかかってならなかった。芹沢の里で別れて以来、絶えて消息を聞かないのである。死んだであろうか、生きているだろうか? その点さえも心もとない。
 それより何より桔梗様には、小一郎が恋しくてならなかった。自分はこんな山の中にいる。恋人小一郎の行衛は知れない。もう一生逢えないかもしれない。これが悲しくてならないのである。それにしても何んの必要があって、自分をこんな山の中へ、山尼達は攫って来たのだろう? これからどうするつもりだろう? 一生人里へは返さずに、山の中へ止めて置くのだろうか?
 これを思うと桔梗様は、不安で不安でならなかった。
 しかし桔梗様のその不安は、一瞬の間に喜びとなった。
 というのは盆地の外れにあたって、二派の武士達でも衝突したような、凄じい叫び声が忽然と起こり、太刀打ちの音が聞こえて来たかと思うと、その方角から馬に乗った武士が、女の馬子を後に従え、桔梗様の方へ走って来たが、天幕の前までやって来ると、ヒラリと馬から飛び下りた。
「おお桔梗様、いられたか!」
「まあ、あなたは小一郎様!」
「お助けに参った、さあさあ馬へ!」
 ――で、桔梗様を馬へ乗せ、君江を先立て一式小一郎は、一散に麓へ下ったからである。
 しかしその時邪魔がはいった。いつの間に先に廻わっていたものか、南部集五郎が二、三人と共に、翻然木蔭から飛び出して、素早く行手を遮《さえぎ》ったのである。
「やらぬぞ一式!」
 切り込んで来た。
「集五郎か」
 と太刀を抜いたが、股を一|揮《き》! 充分に切った。
「あっ」
 という悲鳴! 集五郎だ。切られてグダグダに膝を突いたところを、
「許してやろうぞ! 命ばかりは! ……やれ! 君江!」
「あい!」と云うと、君江は馬を追い立てた。
 馬は一散に馳せ下る。馬上の桔梗様の袖が靡き、崩れた髪の毛が渦を巻く。
 血刀を片手に下げたまま、後を追って走る一式小一郎の、その勢いに恐れたのであろう。誰一人それを追おうともしない。
 盆地の一角では田安家の勢と、一ツ橋家の勢とが切り合っている。

「昆虫館再興は山尼の徒の為なり」
 だが本当を云う時は、
「昆虫館再興は弁天松代の為なり」
 こう云わなければならないのである。
 と云うのは山尼の一団と、昆虫館の一団とが、いよいよ衝突しようとした時、片足の吉次が盗み取った雄蝶を、吉次をたぶらかして滝壺から出させ、それを奪って昆虫館へ駈け込み、昆虫館主人に渡したので、それを山尼の一団へ渡し、戦いを未然に防いだからである。

「神秘昆虫館」の物語も、数種説明を加えることによって、大団円とすることにする。永世の蝶の持っていた、奇怪の謎は解けただろうか? 山尼の徒が持ち去ってしまった。そうして山尼はどこへ行ったものか、その消息を失ってしまった。自然永世の蝶の謎もどうなったものか解らない。山尼の迫害から遁がれたため、昆虫館は昔にかえり、昆虫館主人はそこに住んで、研究をつづけたということであるが、そもそも昆虫館主人とは、どういう素性の人物なのであろう? ある伝説による時は、家光に亡ぼされた駿河大納言の、正統の血を引いている人物であり、そうして隅田のご前なる人は、同じく妾腹の血を引いた人で、幕府にとっては二人ながら、恐れられていた人達であり、そうして高蔵尼という一女性は、駿河大納言を亡ぼすべく、活躍したところの本多上野介の、血を引いた姫だということである。昆虫館主人と高蔵尼とは、敵同志でありながら、どうしてかつては夫婦などになったのか? これこそ疑問というべきであるが、詳しいところは伝説にもない。
 ところで一式小一郎は、その後どういう生活をしたろう? 桔梗様と結婚したそうである。では君江は気の毒ではないか。いやいや彼女は風変わりの女で、そうして楽天家でもあったため、自分の運命を悲しみもせず、例の愛馬の手綱を取り、故郷へ帰ったということである。
 隅田のご前に至っては、依然隅田川の岸へ住み何やら大きな企てに、専念したということである。
 北王子妙子や冷泉華子の、その後の消息も明記されていない。



底本:「神秘昆虫館」国枝史郎伝奇文庫(十)、講談社
   1976(昭和51)年3月12日第1刷発行
※「纒」と「纏」、「跪座」と「跪坐」、の混在は底本通りにしました。
※誤植の確認には「大衆文学大系12」(講談社)を用いました。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:六郷梧三郎
2008年5月21日作成
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