ることになった。
「悲鳴が聞こえた、不思議千万!」呻くように云ったのは集五郎である。
「うむ」と華子も呻くように云ったが、「そなた小山へ馳せ上り、向こう側の様子を窺うよう」
「心得てござる! では早速!」
小山には灌木が生えている。しかし丈の高い木などはない。走り上がった集五郎は、頂きに立つと手をかざし、山の向こう側を見下した。と、山の裾の草の中に、見誤りはない山本という武士が、俯向《うつむ》けになって斃れている。肩を大袈裟に切られたと見え、血が流れ出て日に光るのが、かなり間遠ではあったけれど、不思議のようにハッキリと見えた。
「おっ! やられたか! ウーム気の毒! が、それにしても旅人は?」
集五郎は眼を走らせたが、すぐに旅人を目付けることが出来た。女馬子の引く馬に乗り、旅仕度をした一人の武士が、小山が途切れて谷になっている、そっちを目掛けて急がしく、飛ぶように走らせているのであった。背後《うしろ》姿ではあったけれど、集五郎には見覚えがあった。
「まさしく彼奴《きゃつ》だ! 相違ない!」
唸るがように云った時、馬上の武士が振り返った。
「また逢いましたな。南部氏! 拙者は一式小一郎、貴殿の部下の二人の武士を、殺生ながらも手にかけてござる。と云っても敢て理不尽ではござらぬ。拙者の行手を遮ったからで……いずれは貴殿のことである。ムザムザ拙者を見遁がしはしまい! 大勢でかかって来られるだろう。遠慮はいらない、かかってござれ! が拙者は騎馬しておる。貴殿方は徒歩《かち》らしい。滅多に滅多に追い付くまい!」
間隔《あい》は相当へだたっていたが、高原の空気は澄み返り、雑音が雑《まじ》らないためでもあろう、粒立って声が聞こえて来た。
とまたもや小一郎が、嘲けりの声を響かせた。「それ石卵は敵しがたし、拙者は石で貴殿が卵、幾度ぶつかっても[#「ぶつかっても」に傍点]拙者が勝つ――と云う事はずっと以前に、小梅田圃で云った筈でござる! さあさあ卵氏《たまごうじ》卵氏、ぶつかって[#「ぶつかって」に傍点]ござれぶつかって[#「ぶつかって」に傍点]ござれ! ぶつからぬ[#「ぶつからぬ」に傍点]かな、ではご免!」
クルリと振り返ると小一郎は、女馬子へ何か云ったようであった。とそのとたんに女馬子であるが、持っていた手綱《たづな》を放したが、その手を延ばして馬の背へかけると、翻然飛び乗ったものである。馬上でピッタリ男女の者が、縋るようにして抱き合ったが、キューッと、ひと[#「ひと」に傍点]締め![#「ひと[#「ひと」に傍点]締め!」は底本では「ひと締[#「と締」に傍点]め!」] 馬を締めた! タッタッタッ! タッタッタッ! 野花を蹴散らし砂塵を上げ、走る走る驀地《まっしぐら》!
怒りとそうして驚きとを、同時に感じたのが集五郎であった。小山の頂きに突っ立って、地団太を踏んだが及ばない、そこでグルリと振り返ったが、
「やあ方々一大事でござる、ご存知の一式小一郎が、山本氏と北条氏とを、切ってすてましてござります! 旅人の正体は小一郎、同じ方角へ向かうからは、我々と同じく山尼《やまあま》の居場所へ、訪ねて行くものと存ぜられます! 谷へ向かって馬を飛ばし、今や驀地《まっしぐら》に走って行きます! 追っかけなされ! 討って取りなされ! 谷を包囲し隙間もなく、探し探してお討ち取りなされ!」
こう呼び捨てると集五郎は、小一郎の後を追っかけて、一散に小山を馳せ下った。
そう呼びかけられて一ツ橋勢が、動揺したのは当然と云えよう。
華子の乗った山駕籠を、真ん中に包むと三十余人、同じく谷の方へ走り出したが、もうこの頃には一式小一郎は、谷の斜面の大岩の蔭に、君江と一緒に隠れていた。
四十九
「切り合いをするは容易《たやす》いが、他に大事な目的がある。敵は大勢こっちは一人だ。お前は女で用に立たぬ、怪我でもしては大変である。ああは大言は払ったもののうまく危難を遁がれたいものだ」
いささか心配だというように、小声で小一郎は話しかけた。
「思い付いたことがござます」こう云ったのは君江である。「鹿毛《かげ》を放すことにいたしましょう」
「ああ馬をか? ふうん、何故な」
「ごらんの通り木が繁って、谷間は暗うございます。しかもその木は大木ばかりで、馬が走って行きましても、恐らく姿は見えますまい」
「うむ、そうだな、それは見えまい」
「蹄の音は聞こえましょう」
「おおなるほど、それで解った。馬を走らせて蹄の音を聞かせ、一ツ橋家の武士どもを、迷わせようというのだな?」
「うまく行こうではございませんか」
「鹿毛は戻って来るだろうか?」
「云い聞かせることに致しましょう。きっと大丈夫でございますよ。利口な馬でございますもの」
大岩を巡って木立がある。二人の居場所は薄暗い。その薄暗い一所に、馬が静かに立っている。青草を食べているのである。君江の愛馬の鹿毛である。三浦三崎の実家から、小一郎を乗せて江戸へ出て、そのまま小一郎の屋敷の裏で、飼われていたところの馬である。
君江は立ち上がって近寄ったが、優しく鼻面を手で撫でた。「鹿毛よ」と云ったが情のある声だ、「私達にとっては一大事、それをお前にお願いします。さあさあ谷底へ駈けて行っておくれ。そうして谷底を駈け廻わっておくれ。ドンドン遠くまで走って行っておくれ。疲労《つか》れた頃に帰るがいい。いつまでも待っているからね。さあおいでよ!」
と云いながら、君江は馬の平首を打った。
君江の言葉を聞き分けたからか、ないしは打たれて驚いたからか、馬は一声|嘶《いなな》いたが、谷底を目掛けて馳せ下った。
予想は中《あた》ったというべきであろう。
馬の姿は解らない。蹄の音ばかりは聞こえて来る。
「うむ、これなら大丈夫だ」
「うまくゆくことでございましょう」
二人が微笑して眼を見合わせた時、谷の上から声がした。
「蹄の音だ! 聞こえる聞こえる!」
「ソレそっちへ追いかけろ!」
つづいて木を分け草を分け、大勢の馳せ下る音がした。一ツ橋家の武士達であろう。馬の蹄の鳴る方へ、追っかけて行くものと思われる。
「計画的中! しめたしめた!」
笑みを湛えたが小一郎は、決して油断はしなかった。二人の武士を叩っ切り、血に濡れている大刀を抜いたまんまで膝へ引き付け、全身を大岩の蔭へ隠し、立て膝をして窺った。木洩《こも》れ陽《び》が一筋射している。それが刀身を照らしている。そこだけがカッと燃えている。がその他は朦朧《ぼけ》ている。引き添って背後に坐っているのは、女馬子姿の君江である。用意をして来た懐刀《ふところがたな》を、帯へ差したまま柄《つか》を握り、見現《みあら》わされたら女ながらも、切り捲くってやろうと構えている。
蹄の音が遠ざかる。追って行く武士の足音も、それに続いて遠ざかる。
いよいよ危険は去ったらしい――と思った瞬間であった。二人の真上から人声がして、走り下って来る足音がした。
「これはいけない、見現わされそうだぞ!」さすがにハッとして小一郎が、抜き身をユラリと取り直した時、五、六人の武士が馳せ下って来た。とその中の一人であるが、スルスルと大岩の頂きへ登った。見上げた小一郎の眼の上に、わずか一間の間隔を置き、その武士の穿いている野袴の裾が、風に煽られて靡いている。蹄の聞こえる方角を、じっと眺めているようである。もしその武士が振り返り、大岩の蔭へ眼を落としたら、一式小一郎と君江の姿を、見て取ることが出来ただろう。
「平林平林、何をしている。さあさあ早く追っかけよう」大岩の向こうから声がした。一ツ橋の武士達が、そこに五、六人いるようであった。
「むやみと追っかけても仕方がない」岩の上の武士が云い返した。「それに俺には不思議でならない。蹄の音が軽すぎるよ。人間を背にして走っている、馬の足音とは思われない」
「うむ、なるほど、そうだなあ」岩の向こう側からの声である。「ちょっとこいつは可笑《おか》しいぞ」
するともう一人の声がした。
「馬だけ放して小一郎奴は、どこかに隠れているのではないかな」
つづいてもう一人の声がした、「オイこの地面を見るがいい。草があちこち千切れている。どうやら馬が食い千切ったようだ」
「ではこの辺で小一郎奴は、馬を休ませたに相違ない」岩の上の武士の声である。「それから馬だけ放したかもしれない……。ひょっとかするとこの辺に、小一郎奴は隠れているかも知れない」
「ではともかくも探してみよう」岩の向こうからの声である。
「よかろう」という声が同時にした。と、大岩をゆるゆると、こっちへ巡って来る足音がした。
五十
「もういけない」と小一郎は、覚悟の臍《ほぞ》を固めたが、俺一人なら飛び出して、切り死にしても構わないが、君江という娘が附いている、優しい忠実な娘である、一緒に死なしては相済まない、――そこで一式小一郎は、逸《はや》る心を押し沈め、目付けられて声を掛けられるまでは、隠れていよう隠れていよう……そこで一層大岩へ、ピッシリ体を押しつけて、尚も様子をうかがった。この時またもや頭上にあたって、数人の人の声がした。つづいて馳せ下る音がした。一直線に大岩の方へ、走り下って来るようである。
華子の乗った山駕籠を守り、一ツ橋の武士達が、四、五人下って来るのであった。
こうして小一郎と君江とは、腹背に敵を受けてしまった。
目付けられるに相違ない。目付けられたら切り合いになろう。相手は三十余人もある。小一郎は一人である。足手纒いの君江もいる。勝敗の数は知れている。剣侠一式小一郎も、命を落とさなければならないだろう。
だがそのおりから谷を越した、ずっと向こう側の山の上から、ドッと喊声が湧き起こった。
一挺の山駕籠がまず現われ、それに続いて二、三十人の武士が、黒蟻のように現われた。谷を見下ろしているのである。
「おおあれは田安勢だ!」こういう声が聞こえて来た。冷泉華子の声である。山駕籠の中から叫んだのらしい。「あの山駕籠に乗っている者は、北王子妙子さんに相違ないよ」
こうして田安勢と一ツ橋勢とが、顔を合わせることになったが、それにしても田安勢は何んのために、北王子妙子を山駕籠に乗せ、こんな所へあらわれたのだろう。
説明するにも及ぶまい。同じく山尼の居場所を突き止め、永世の蝶を取り返そうと、やって来たものに相違ない。
ふたたび乱闘は行われよう。
秩父山中を血に染めて、切り合うことになるだろう。
それにしても小一郎や集五郎や、冷泉華子や妙子までが、探し求めている山尼の群が、はたしてそんな秩父山中の、桐窪などにいるのだろうか?
ここは桐窪の一画である。
盆地が広く開いている。
晩夏の日光を刎ね返し、天幕が無数に立っている。わけても大きな天幕の中に、さも長閑《のどか》そうに話している、面白い対照の男女があった。
「ねむねむゴー、ねむねむゴー、こうおっしゃったのでございますよ。ほんとに面白いお師匠様で」
こう云ったのは鯱丸《しゃちまる》である。
「ねむねむゴー、ねむねむゴー、面白い言葉でございますこと、どういう意味なのでございましょう」
こう云ったのは桔梗様である。
「そうかと思うとお師匠様は、こうも云うのでございますよ。鯱丸よ鯱丸よパッチリコ! 鯱丸よ鯱丸よパッチリコ!」
「おやおや今度はパッチリコで、どういう意味なのでございましょう」さも楽しそうに桔梗様が訊く。
「そうかと思うと、お師匠様はこう云うのでございますよ」またもや鯱丸はやり出した。
「グルグルチン! グルグルチン!」
とうとう桔梗様は吹き出してしまった。
「だんだんむずかしくなりますのね。ねむねむゴーからパッチリコになり、そうしてそれからグルグルチン……何んだか妾には解らない」
「何んでもないのでございますよ」いよいよどうやら鯱丸は、その説明に取りかかるらしい。「ねむねむというのは、眠れということで、ゴーというのは鼾《いびき》のことで、つまりゴーッと鼾を立てて、眠れということなのでございますよ。私が晩《
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