今日が日まで、あの桔梗様を心から、愛しているのでございますよ」
「それを知らないでどうしましょう。妾は以前《まえ》から知っておりました」
「ええとところで桔梗様の方でも、私を愛しておりますので」
「それもあなたから一再ならず、承わった筈でございますよ」
「で、桔梗様が目付かったとすると、どういう結果になりましょう」
「どういう結果になりましょうとも、妾には関係ございません」本当に関係がなさそうに、君江の調子には変わりがなかった。「この妾といたしましては、あなたを愛しておりますので、ただそれだけでございますよ」
「しかし」と小一郎はやや物鬱《ものう》く、「競争になるかも知れませんなあ」
「いずれは競争になりましょう」やっぱり君江は変わらないのである。「あなたを取り合って二人の女が、競争することでございましょう」他人事《ひとごと》のような調子である。
「さあどっちが勝ちますやら」かえって小一郎の方が不安そうである。
「はい、妾が勝ちますとも」
「随分自信がありますようで」今度は小一郎は可笑《おか》しくなった。
「そういう自信がないことには、何んで妾がお供をして、桔梗様をさがしの旅などへ、進んで出かけて参りましょう」
「いかさまこれはもっともで」
 話がここで切れてしまった。
 手綱を引いて君江が行く。馬に揺られて小一郎が行く。一見長閑な旅である。
 どこへ向かって行くのだろう? ズンズン行けば桐窪《きりくぼ》へ出る。それでは桐窪へ行くのだろうか?
 それにしても一式小一郎は、芹沢の里に建てられてあった、冷泉華子の道場の、水に充たされた垢離部屋から、どうして出ることが出来たのだろう? それこそ何んでもなかったのである。高い窓から遁がれたのである。水が窓から流れ出るまで、小一郎は垢離部屋で立泳ぎをしていた。そうして流れ出る水と一緒に、窓から外へ出たのである。窓が大きくなかったら遁がれ出ることは出来なかったろう。幸いに窓は大きかった。で、出ることが出来たのである。もしまた南部集五郎が、さらに一層注意深く、窓まで水が浸《つ》く前に、早く樋口を引いたなら、遁がれ出ることは出来なかったろう。集五郎は周章《あわ》てていたようである。で、樋口を掛け放しにして、華子へ知らせに走ったのであった。そうしてその後に起こったのが、あの凄まじい乱闘で、そうして乱闘の行われている間に、窓まで水が浸いたのであった。
 それから小一郎はどうしたか?
 乱闘の場を辛く遁がれ、自分の屋敷へ帰ったのであった。もっとも修羅場を遁がれ出る時、彼はこういう叫び声を聞いた。
「桔梗様を山尼《やまあま》が攫って行く!」と。
 屋敷へ帰った小一郎が、傷付いた体を養いながら、山尼なるものの性質と、その居場所とを調べたことは、云うまでもないことであったが、知ることは出来なかった。
 ただし一旦家を出て、隅田のご前をお訪ねした時、計らずもそれを知ることが出来た。

        四十七

 隅田のご前がこう云ったからである。
「桔梗を山尼が連れて行ったそうだの。いや一切知っておる弁天の松代が話してくれた。いやいや少しも心配はない。桔梗はむしろ安全だろう。と云って捨てては置かれない。……夫婦の間の憎悪《にくしみ》は、恐ろしい結果を呼ぶものだからの……一番不幸なのは昆虫館主さ……が、まあまあそれはよい。この俺が処置をつけてやる。……どっちみち桔梗だけは安全だよ。……と云ってお前の身になってみれば、安心してはおられまい。山尼の何者かを知りたかろう。では簡単に話してやろう。山岳|行脚《あんぎゃ》の尼僧の群だ。と云って尋常な尼僧ではない。一種特別の放浪者だ。不思議な業さえ心得ている。兇暴な性質も持っている。……ところで居場所だが解らない。天幕生活をしているのでな。もっとも大略《おおよそ》の見当はつく。秩父山中の桐窪にいよう。……これ以上は教えられない」
 そこで一式小一郎は、それだけの言葉を手頼りにして、桔梗様を探しに出て来たのであった。
 手綱を引いて君江が行く。馬に揺られて小一郎が行く。懸巣《かけす》が林で啼いている。野の草が風に靡いている。
 二人は旅をつづけて行く。
 はたして一式小一郎は、山尼の居場所を突き止めて、ふたたび恋人の桔梗様を、取り返すことが出来るだろうか?
 一つの森が現われた。と、その森の向こう側から、大勢の人声が聞こえて来た。
「はてな?」と耳を傾《かし》げた時には、風の吹き具合が変わったのだろう、もう話し声は聞こえなかった。それにも拘らず小一郎は、非常に不安の様子を見せた。話し声に聞き覚えがあったからである。
「とは云えまさか[#「まさか」に傍点]あの連中が」口の中で呟いた。「ナーニこの俺の聞き違いだろう」
 いやいやそれは聞き違いではなかった。小一郎にとっては恐ろしい敵が、その時その森の向う側を、まさしく歩いていたのであった。
 山駕籠に乗った冷泉華子を、南部集五郎とその一味とが、守護するように引き包み、話しながら辿っていたのであった。
 山駕籠の引き戸が開いている。華子がそこから覗いている。景色を眺めているのだろう。傍に引き添ったのは集五郎で、旅の装いを凝らしている。
 人数にして三十人あまり、同じ方角へ歩いて行く。
「はたして目付かるでございましょうか?」こう云ったのは集五郎であった。何んとなく不安な様子がある。
「たしかに目付かると思うがね」こう云ったのは華子であった。だがやっぱりどことなく、不安な様子を見せていた。「山尼の居場所を見付けるのは、大して困難ではないのだよ。目付けた後が困難なのさ。つまり取られた永生の蝶を、取り返すのが困難なのさ」
「ひどい目に逢ったというもので」こう云うと集五郎は苦笑をした。「やっと捕えた一匹の蝶を、横取りされたのでございますからな」
 すると今度は冷泉華子が、苦笑を口もとへ浮かべたが、「妾のニラミに狂いがなければ、永生の蝶を取られたより、桔梗という娘を取られた方が、お前さんにとっては苦痛のようで」
 これには集五郎も参ったようであった。
「率直に申せばその通りで、あれは残念でございましたよ。が、それにしても何用あって、永生の蝶や桔梗という娘を、あの不思議な山尼達は、横取って行ったのでございましょう」
「それは妾には解らないよ。……そうは云っても永生の蝶は、あれだけ名高いものではあり、それの秘密を剖《あば》いた者は、道教でいうところの寿福栄華を、一度に掴むことが出来るのだから、山尼の長《おさ》の高蔵尼《こうぞうに》が、欲しく思ったのは当然といえよう」
「その高蔵尼でございますが、あなた様や北王子妙子にとっては、どのような関係がございますので」集五郎にはこれが疑問らしかった。
「旧師匠なのだよ、私達のね。……これ以上は云われないよ。……一度あのお方に出られたが最後、妾にしてからが妙子さんにしてからが、それこそ手も足も出ないのだよ」
「ははあ」と云ったが集五郎には、腑に落ちないところがあるようであった。「それにしても奇観でございましたよ、あなた様の方へも行くことが出来ず、妙子の方へも行くことが出来ず、宙に舞っていた永生の蝶が、あの高蔵尼が現われるや否や、一気にそっち[#「そっち」に傍点]へ翔《か》けて行き、袖へ飛び込んだのでございますからなあ」
「強い力をお持ちだからさ」
「どういう力でございましょう?」
「妾や妙子さんの持っている力と、同じような力なのさ。それが十倍も強いだけさ」
 一行はズンズン歩いて行く。
 やはり秩父の山中の、桐窪《きりくぼ》が一行の行く先らしい。山尼の居場所が目的地のようだ。
「おや」と集五郎が呟きながら、ちょっと小首を傾げたのは、森の向こう側からシャンシャンという、馬の鈴音が聞こえたからである。「旅人が通っているらしい」何んとなく不安の気のしたのは、所は道のない野原であり、山越しをして行く旅人などが、めったに通らない場所だからであった。
「馬の鈴音が聞こえましたようで」華子に向かって声をかけた。
「ああ妾も聞こえたよ」
「同じ方角へ行きますようで」
「どうやらそんな様子だねえ。だが大概は旅人だろうよ」案外華子には苦にならないらしい。
「しかし今回の私どもの旅行は、絶対の秘密になっております。人に姿を見られましては、あまり感心いたしません」
「云うまでもないよ、その通りだよ」
「で、好んで峠路を避け、道のない野原を辿っております」
「そうした方が安全だからね」
「森の向こう側の旅人に、見られないものでもございません」
「同じ方角へ行くのだから、いずれはどこかで出合うだろうよ」
「その旅人が人里へ下って、我々の様子を吹聴しましたら、いささか困りものにございます」
「と云って旅人を掣肘《せいちゅう》して、旅をするなとは云えないではないか」
「ともかくもどういう旅の者か、確かめて置いた方がよろしいようで」
「なるほど、それだけは必要かも知れない」
「森の向こう側へ人をやり、見させることに致しましょう」
「そうだねえ、そうしてごらん」
「山本氏、山本氏」武士の一人を呼びかけた。
「は」と云いながら近寄って来たのは、二十七、八の武士であった。
「ご貴殿森の向こう側へ行き、馬に乗って通る旅人の様子を、それとなく窺《うか》がってくださるよう」
「委細承知」と云いすてると、森を分けて武士は走り去った。
 で、一行は進んで行く。
 華子の乗った山駕籠が、列の先頭を切っている。それに引き添ったは集五郎である。それに続いて三十余人の武士が、旅装いかめしく付いて行く。一ツ橋家の武士である。
 右手は鬱々とした森である。左手は起伏した丘である。行手にも幾個《いくつ》か森がある。長く続いた林もある。小山もあれば谷もあり、川も流れているらしい。灌木や藪が飛び散っている。山は斜面をなしていたが、登りはそれほど険しくはなかった。空を横切って小鳥が飛ぶ。遙かの山の頂きに、入道雲が屯《たむろ》している。晴れた空が海のように深く見える、山地特有の空である。
 一行はズンズン進んで行く。
 五町あまりも歩いたろうか、森は途切れたが林となった。林の左側に沿いながら、一行はさらに進んで行く。
 と、今度は小山となった。山の斜面に瘤《こぶ》のように、うずくまっている小山である。小山の裾を巡りながら、一行は尚も進んで行く。
 と、小山の反対側から、またも馬の鈴が聞こえて来た。
 ところがどうにも腑に落ちないのは、物見に出て行った山本という武士が、いまだに帰って来ないことであった。
「どうしたのだろう、可笑《おか》しいではないか」
 集五郎には不思議でならなかった。
「山本氏が帰りませんようで」華子に向かって不安そうに云った。
「そうだねえ、どうしたのだろう」
 日光を遮って駕籠の中は、ボッと薄暗く煙っていたが、その中に浮いている華子の顔には、幽かながらも不安があった。「十や十五の子供ではなし、迷児《まいご》になったのではあるまいが、それにしても少し手間取り過ぎるよ」
「それに旅人の鈴の音が、小山の向こう側で聞こえております」
「もう一人物見にやってごらん」
「北条氏北条氏」呼ぶ声に連れて、北条という若い武士が、すぐに後列から走って来た。
「は、何事でございますかな?」二十五、六の武士である。
「お聞きの通り小山の向うで、馬の鈴音が聞こえております。どのような旅人が通っておるか、行ってお調べくださるよう」
「かしこまりましてございます」
 北条という武士は馳せ去ったが、すぐに山の向うへ隠れてしまった。
 一行はズンズン進んで行く。

        四十八

 小山と云っても丘のようなもので、高さから云うと知れたものであったが、その延長は著しかった。で、その裾に添いながら一行はズンズン進んで行った。
 依然鈴の音は聞こえて来る。悠々と歩いていると見えて、その鈴の音もおちついている。
 だがその鈴の音が急に止み、罵り合う声が続いて起こり、すぐに消魂《けたたまし》い悲鳴が聞こえ、同時に鈴の音が乱調を作《な》し、甲高く響いた瞬間から、局面が一変す
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