躍すると駈け込んだが、
「おっ、これは!」と立ち縮《すく》んだ。
 巨大な火炉が燃えている。その上に大釜が懸かっている。朦朦《もうもう》と湯気が立っている。プ――ンと異臭が鼻を刺劇《つ》く。その傍に黒々と、道服を纒った女がいる。左手に持ったは黄金の杖で、そうして右手に抱えたは、死んでいるのか気絶しているのか、両眼を瞑《つむ》ってグッタリと、延びている乙女の体である。女のくせに何んと大力、道服の女――冷泉華子は、抱えた乙女を――桔梗様を、グ――ッと上へ差し上げた。きっと釜の中を睨んだが、「融《と》かしてやろうぞ! 融かしてやろうぞ!」まさに桔梗様を投げ込もうとした。
「待て!」と叫んだ弁天松代は、あたかも雌豹、飛びかかった。
 と、飛び退いた冷泉華子は、思わず桔梗様を床へ置き、黄金の杖を突き出したが、「誰だ誰だ汝《うぬ》は誰だ!」
「世上に名高い七福神組、その頭領の弁天松代だ! 汝《うぬ》は誰だ! 汝は誰だ!」
「女方術師蝦蟇夫人さ! ……弁天とやら、何んしに来た!」スルスルと黄金の杖を出した。
 脇差しを構えた弁天松代、「云って聞かそう、取り返しにだ! 昆虫館館主のご令嬢を」
「桔梗をか※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と冷酷に、「ここにいるわい! 生死は知らぬよ!」
「貰うぞ!」と叫んだが弁天松代は脇差しを揮うと飛び込んだ。
 気勢に圧せられた冷泉華子はタジタジと後へ退ったが付け目、片手を延ばすこれも大力、松代は桔梗様を引っ抱えた。
「お礼は後日! ……思い知れよ!」
 捨て科白《ぜりふ》を残して弁天松代が、部屋から駈け出ようとした時である。
「女賊め、ならぬ!」
 と声を掛け、戸口から現われた武士がある。ドギツク白刃を下げている。
「邪魔だよ、退《ど》きな!」と弁天松代。
「行手は封じた! 遁がさぬぞよ!」
「汝《おのれ》は誰だ?」
「南部集五郎だ」
「一ツ橋家の侍だな」
「桔梗様に焦心《こが》れている者だ!」
「さては汝が……」
「誘拐《かどわか》したあア――」
「観念!」
 と投げ付けた声と共に、松代は片手で突きをくれた。
 と、チャリ――ンと太刀の音! すなわち南部集五郎が苦もなく払って退けたのである。「蟷螂《とうろう》に斧だ! くたばれ女郎!」
 その時ジ――ンと音がした。冷泉華子が黄金の杖を、素早く釜の中に入れたのである! 引き出すとスルスルと突き出した。水銀色の滴が垂れ、例によって床から煙りが立ち、そうして床へ穴が穿《あ》いた。
「熔《と》ろかせてやろう。醂麝液で!」左手からジリジリと詰め寄せた。
 上段に振り冠った集五郎、右手からシタシタと廻わり込んだ。「女郎! 助けぬ! きっと殺す!」
 後へ退った弁天の松代は左右の敵を睨んだが、俄然床の上へ膝を突いた。抱いていた桔梗様を放したかと思うと、人差し指を鈎に曲げ、口に含むと合図の笛だ、長く二声吹き立てた。
 と、聞こえる足の音! むらむらと込み入った人数がある。六人組の怪盗である。
「や、姐ご!」
「お前達!」
「おお桔梗様が?」
「目付かったよ」
「しめたしめた、引き上げろ!」
「手輿をお組みよ!」
「おっと合点!」
 六人は片手をガッシリと組んだ。飛び上がった弁天松代は、桔梗様を軽々と抱き上げたが、「表門から行こう、さあ行け行け!」桔梗様を手輿へ舁《か》きのせた。
「それ!」と叫ぶと怪盗六人、片手の抜身を水平に突き出し、シタシタシタシタとそよがせ[#「そよがせ」に傍点]たが、敵を寄せ付けぬ算段である。
 一切の行動が風のようだ。弁天松代を先頭に、サ――ッと戸口から走り去った。
 冷泉華子と南部集五郎は、あまりの意外、あまりの神速、そのやり口に胆を奪われ、しばらく茫然と立っていたが、気が付くとまず集五郎は後追っかけて走り出た。
「やあ方々!」と大音声、「七人の曲者一団となり、表門の方へ走ってござる! 追っかけめされ追っかけめされ!」
 つづいて華子が走り出た。「方々!」とこれは金切り声、「秘密の道場を剖《あば》いた彼ら、遁がしてはならぬ、討って取りなされ! 一手は裏門へお廻わりなされ! 先廻わりをなされ! 先廻わりを!」
 二手に別れた一ツ橋勢、表門と裏門とへ向かったが、既にこの時弁天松代は、表の大門の閂へ、ピッタリ両手を掛けていた。
 ガラガラド――ン! 門が開いた。
「さあさあ早く」
「エッサエッサ!」
 依然松代を先頭に、七福神組の怪盗一団、魔のように門を駈けぬけた。
 後追っかけるは一ツ橋勢! だが怪盗の神速には、到底及びもつきそうもない。
 とはいえこの時行手にあたり、喊声《かんせい》の起こったのはどうしたのだろう? 裏門をひらいて走り出た、一ツ橋家の一手の勢《ぜい》が、七福神組の先に廻わり、今やおっ[#「おっ」に傍点]取り囲んだのである。

        四十

 ところがちょうどこの頃のこと、大森の方角から海岸づたいに、一団の人影が走って来た。一挺の駕籠を取り巻いた、十五、六人の武士達で、いずれも[#「いずれも」は底本では「いずも」]密行姿である。女方術師鉄拐夫人、その本名は北王子妙子、それを駕籠へ乗せた田安家の武士で、桔梗様を救いの人数であった。
 すなわち田安家の裏門から、この夜こっそり忍び出て、方角違いの玉川の方へ走って行った一団なのであるが、どこをどうして廻わって来たものか、この時姿を現わしたのである。
 海岸を一散に走って行く。と、妙子が声をかけた。
「お急ぎお急ぎ、急いでおくれ! まごまごしていると間に合わない! ……妾には解る、妾には解る! 昆虫館主の娘の桔梗が、今危難に墜落《おちい》っている! 生死のほども気づかわれる! 一刻を争う場合だよ! お急ぎお急ぎ、お急ぎお急ぎ!」
 駕籠の一団はひた[#「ひた」に傍点]走る。
 砂山がある。砂山を越す。流木がある。流木を飛ぶ。とまた砂山が出来ている。それを越さなければならなかった。
「可笑《おか》しいねえ。どうしたんだろう? 何んとも云えない不安の気が、海の方から襲って来るよ」
 北王子妙子の声がした。
「走るのをお止め! 駕籠をお止め!」
 ――止まった駕籠からスルスルと、北王子妙子は現われたが、浪打ち際まで歩いて行き、ズーッと海上を眺めやった。
 が、海上には何んにもない。月光に暈《ぼ》かされて茫漾と、煙りこめているばかりである。
 だが北王子妙子には、どうやら何かが見えるらしい。いつまでも不安そうに眺めている。
 と、にわかに振り返ったが、
「柵頼《さくらい》柵頼!」と声を掛けた。
「は」寄って来た武士がある。柵頼格之進という武士である。慇懃に小腰をかがめたが、「は、何事でございますか?」
「ご覧、海上を、船が来るだろう?」
 柵頼格之進は海上を見たが、船の姿などは見えなかった。
「いえ、見えませんでございます」
「そうかい」と云ったが妙子の声は、依然不安を帯びていた。「お前達のような凡眼には、時刻《とき》は深夜、間隔《あわい》は遠し、なるほどねえ、見えないかも知れない、が、確かに恐ろしい船が、一隻帆走って来るのだよ」
「どういう意味でございますかな? 恐ろしい船と申しますのは?」
「船は何んでもないのだよ。恐ろしいのは乗っている方さ」
「いかなるお方でございますかな?」
「秘密を握っている方さ」
「何んの秘密でございましょう?」どうにも柵頼格之進には、妙子の云うことが解らないらしい。
「妾の秘密を握っている方さ! そうして妾の競争相手の、冷泉華子さんの秘密もね」
「そのお方のご身分は?」
「偉い方だよ、力を持った方さ」
「ご姓名は?」
「うるさいねえ!」
「は」と格之進は引っ込んだ。
「こんな場合にあのお方に、出現されてはたまらない[#「たまらない」に傍点]! 何も彼もみんな駄目になる」譫言《うわごと》のように呟いたが、「ナーニそうなりゃア怨《うら》み恋《こい》なしだ! 妾ばかりが困るのではない、華子さんだって困るのだ。諦めなければならないかもしれない」
 尚も海上を眺めやった。
 だが、海上には何んにもない。風の凪《な》いだ海は、穏かで、事実人魚というようなものが、ほんとに海の中に住んでいるなら、波に浮かび出て美しい声で、歌でもうたいそうにさえ思われる。
 クルリと方角《むき》を変えた北王子妙子は、駕籠の傍まで引っ返したが、
「案じていたところで仕方がない。やるところまでやるとしよう」駕籠へはいると声をかけた。
「おやり! 急いで! 一生懸命!」
 海岸を伝って一散に、駕籠を囲んで田安家の武士達は、芹沢の方へ走ったが、駕籠の中では北王子妙子が、不安そうに呟いていた。
「船! ……あのお方! ……手も足も出ない!」
 だが本当にそんな[#「そんな」に傍点]船が、そんな恐ろしい人物を乗せて、海上を渡って来るのだろうか?
 妙子の透視《みとおし》には狂いがなかった。
 遙か離れた海上を、一隻の船が帆走っていた。

        四十一

 船首《へさき》には老婦人が立っている。
 悠然と行手を眺めている。
 と、老婦人が声をかけた。
「これこれ鯱丸《しゃちまる》、どうしたものだ、眠ってはいけない、起きたり起きたり」
「阿呆らしい」とすぐに返辞が来た。「何んの眠ってなんかおりますものか、こんなに大きくパッチリと、眼をあいているじゃアありませんか」こう云ったのは少年である。船尾《とも》の方に坐っている。青い頭の小法師である。年はようやく十四、五らしい。可愛い腰衣《こしごろも》をつけている。帆をあやつっているのである。
 その帆であるが変わった型で、三角型のものもあれば、菱形をなしたものもある。一本の丁字形の帆柱に、鳥が羽根でも張ったように、風を孕んで懸かっている。だがその地質はひどい[#「ひどい」に傍点]物で、継接をした襤褸なのである。
 船の形も珍しかった。と云うよりそれは筏《いかだ》なのであった。あの木曽川とか富土川とか、山間の河を上下するために、山の人達は丸太を組んで、堅固の筏を作るものであるが、その船もそういう筏なのであった。
 それにしても、速力の速いことは!
 筏船は駸々《しんしん》と走って来る。歌のような帆鳴りの音がする。泡沫《しぶき》がパッパッと船首《へさき》から立つ。船尾《とも》から一筋|水脈《みお》が引かれ、月に照らされて縞のように見える。
「嘘をお云いよ、嘘をお云いよ、何んの鯱丸がパッチリコと、眼なんか開いているものか。居眠りをしていたに相違ない」老婦人はこんなことを云い出した。「その証拠には三角の帆が、ダラリと下がっているではないか」
「おや」と鯱丸は吃驚《びっく》りした。「向こうを向いている癖に、こっちのことが解ると見える。背後《うしろ》に眼でもあるのかしら。小気味の悪い婆さんだよ」
 優れて美しい容貌にも似ず、鯱丸は口が悪いのである。
 ところが老婦人の性質は、寛大で剽軽《ひょうきん》で磊落《らいらく》だと見え、一向それを咎めようともしない。
「背後《うしろ》にもあれば前にもある、足にもあれば手にもある、胸にもあれば背中にもある、妾は体中眼なんだよ。何んのそればかりではない! 頭脳《あたま》! 頭脳! ね、頭脳、頭脳そのものが眼なんだよ。だからさ、妾にはどんなものでも見える、……だからさ、今度山を下り、江戸へ入り込んだというものさ」老婦人はこんなことを云い出した。
「いよいよ迷惑な婆さんだよ」小法師の鯱丸は毒舌である。「江戸入りしたのはいいけれど、筏船を作って帆を上げて、隅田川を上へ溯《さかのぼ》って、大きな屋敷の水門から、屋敷へ入り込もうとしたかと思うと、にわかに後へ引っ返し『鯱丸よ、行手変えだ! 芹沢の郷! 芹沢の郷! やれやれやれ、そっちへやれ』などとむやみに急《せ》き立てて、こんな方へ走らせて来たんだからなあ。その途方もない沢山の眼で何を見たのか知らないが、梶取《かじと》りの俺《おい》らは疲労《つか》れてしまう」どうやら鯱丸は不平らしい。「一体全体何んのために、そんな所へ行くのだろう」
「それはね」と云ったが老婦人の声は、この時
前へ 次へ
全23ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング