されたのは一筋の槍だ。
いうところの逆モーション。かわすところを反対に、前へ飛び出した小一郎は、これもあくまで逆モーション、刀を揮って払いもせず、千段巻を握ろうともせず、飛び込みざまの双手突き、ウンとばかりに突っ込んだ。
悲鳴をあげたのは槍の持ち主で、槍を前方へ突き出したまま、しばらく堪えて立っていたが、やがてポロリと槍を落とすと、背後《うしろ》ざまに地に仆れた。
もうこの頃には小一郎は、束《そく》に背後へ飛び返り、ふたたび太刀を下段に付け、「来やアがれーッ!」と構えたが「あッ」とその次の瞬間には、驚きの声を迸らせた。
月夜に楕円形の抛物線《ほうぶつせん》を描き、蛇のようなものが翻然と、小一郎へ飛びかかって来たからである。
「残念! やられた! 鎖鎌だ!」
叫んだ小一郎の声と共に、ガラガラという音がした。同時にピカッと何物か、閃めき飛んだものがある。
三十五
争闘の後の静けさよ! ただ声ばかりが聞こえて来る。
「一尺になった! 二尺になった!」
それから少し間を置いて、
「三尺になるのも間もあるまい!」
滝の落ちる音が聞こえて来る。これまでの音とは少し違う。ドンドンドン……ドンドンドン……これがこれまでの音であった。しかるに今はザーッ、ザーッと、あたかも夕立ちの降るような、そんな音に変わっている。
女方術師蝦蟇夫人の、その本名は冷泉華子、その華子の錬金道場の、その道場を囲繞している、樹木の鬱々と繁った所は、宏大もない庭である。
先刻まで、一式小一郎が、南部集五郎一味の者と、切り合っていたところの庭である。
その庭の隅の一所に、一個の建物が立っていた。木口で作った建物ではない。岩で作った建物である。その形は正方形、いや丈《たけ》の方がうん[#「うん」に傍点]と高い。長方形と云うべきであろう。十畳敷きぐらいの大きさである。その一方に扉がある。どうやら鉄で出来ているらしい。外から閂《かんぬき》が下ろされてある。ずっと高い一所に、四角の窓が開いている。その窓から巨大な棒が、一本ヌッと掛け渡してある。その棒の外れに聳えているのが、雑木に蔽われた崖である。その距離は精々一間であろう。崖からは滝が落ちている。いやその滝は先刻方まで、崖を伝って滝壺へ、素晴らしい勢で落ちていたのであるが、今では少し違う。と云うのは今では滝の水は、巨大な棒――樋なのであるが、それを伝って岩組の建物――すなわち華子の垢離《こり》部屋なのであるが、その中へ落ち込んでいるのであった。
崖の一角へ足場を定め、窓から垢離部屋を覗き込みながら、叫びを上げている武士がある。他ならぬ南部集五郎であった。
「三尺になるのも間もあるまい! 四尺になるのも間もあるまい。五尺六尺となるだろう。部屋が滝の水で一杯になろう、と窒息だ! すなわち溺死!」さも愉快そうに叫んでいる。
垢離部屋の中に武士がいる。囚われた一式小一郎である。
大水が頭上から落ちて来る。部屋の扉は閉ざされている。逃げ出すことは絶対に出来ない。水の疏口《はけぐち》も閉ざされたのだろう。部屋の中の水は増すばかりである。
窓から外光が射している。青々とした月光である。で岩組の垢離部屋の中が、幽かながらも朦朧と見える。
「鎖鎌で刀を捲き落とされた。そこを大勢に組み付かれた。二、三人投げたがおっつかなかった[#「おっつかなかった」に傍点]。手を取られ足を取られ、担ぎ上げられたと思ったら、ドンとこんな部屋へ投げ込まれた。……水が落ちて来る! 水が湛《た》まる! 天井は高い! 窓も高い! 扉が開かない! 逃げることは出来ない! だがこうしてはいられない! まごまごしていると溺死する! どんなことをしても逃げなければならない! どんなことをしても出なければならない!」
で、一式小一郎は、扉の方へ走って行った。水が股までつい[#「つい」に傍点]ている。足を取られてヨロヨロする。扉を押したが揺るごうともしない。
「どこかにないか! どこかに出口は!」
で、一方の岩壁へ走った。叩いたが岩壁は動かない。ツルツルしていて足がかりもない。
もう一方の岩壁へ走って行った。やはり叩いたが動かない。もう一方の岩壁へ走って行った。やっぱり駄目だ。打っても叩いても、岩壁は微動さえしなかった。
どっちの壁を叩いても、微塵《みじん》動こうとはしないのである。そうしてどの壁も垂直であり、手もかからなければ足もかからないで、岩壁をよじ上り、窓まで行くことも出来なかった。
ザ――ッ、ザ――ッと水が落ちる。見る見るその水が量を増す。腰までつい[#「つい」に傍点]た。腹までつい[#「つい」に傍点]た。ととうとう胸までつい[#「つい」に傍点]た。
間もなく首までつく[#「つく」に傍点]だろう、すぐに顎までつく[#「つく」に傍点]だろう。そうして口までつく[#「つく」に傍点]だろう。鼻までつい[#「つい」に傍点]たら最後である。
岩壁へもたれた小一郎は、「無念! 駄目だ! 俺は死ぬ! あッあッあッ、溺死する! ……桔梗様アーッ」と呼ばわった。
「そうだ桔梗様はどうしているだろう? 恐ろしい恐ろしいその館、ここに囚われている限りは、ロクな目に逢ってはおられまい! 命のほども危ぶまれる! 助けなければならない、助けなければならない! 桔梗様アーッ」と呼ばわった。
考えがグルグル渦を巻く。その間も滝は落ちて来る。ズンズンズンズン水が増す。
「出なければならない、この部屋から! ……助けなければならない、桔梗様を! ……だが出られない! 助けることも出来ない! ……桔梗様! 桔梗様!」
ザ――ッ、ザ――ッと落ちる水! 次第にまさる水の量!
一式小一郎はこの部屋で、溺死しなければならないだろう。
だが本当に桔梗様は、この頃何をしていたろう?
三十六
ここは華子の錬金部屋である。床へペッタリくず[#「くず」に傍点]折れて、身悶えしているのは桔梗様である。袖で顔を蔽うている。肩で烈しく呼吸をしている。歔欷《すすりない》ている証拠である。
その前に墨の柱のように、黒の道服を身に纒い、立っているのは華子であった。黄金の杖を差し出している。杖の先からは醂麝液が、水銀色をして落ちている。落ちるに従って石畳の上に、小穴がポッツリポッツリと穿《あ》く。そうして煙りがポ――ッと立つ。
唐獅子型の火炉の中では、火が赤々と燃えている。火炉には釜がかかっている。巨大な唐風の釜である。釜から立ち上っているものは、乳色をした湯気である。部屋全体が煙っている。紫陽花《あじさい》色に煙っている。天井から下がっている瓔珞龕《ようらくがん》、そこから射している灯の光それが煙らしているのである。
少しも変わらない錬金部屋の光景!
いやいや一つだけ変わっている。出入口に垂れてあった錦の帳《とばり》が、今は高々と掲げられ、開いた戸口から遠々しく、声が聞こえて来ることであった。
「一尺になった! 二尺になった!」それから少し間を置いて、「三尺になるのも間もあるまい!」――南部集五郎の呼び声である。
と、華子は云い出した。
「あなたの恋人の一式様は、岩組で作った垢離部屋の中に、閉じ込められてしまいました。あなたの身の上を案じられ、助けに来られた一式様が! ……お聞きなさりませ滝の音を! ザ――ッ、ザ――ッ、ザッ、ザ――ッと聞こえて来るではございませんか! 落ちているのでございますよ、その岩組の垢離部屋の中へ! ……一尺になった、二尺になった、三尺になるのも間もあるまい! お解りになりましょうか、この意味が? 水が湛まったということです。……湛まり湛まって滝の水が、垢離部屋一杯になった時、溺死することでございましょう、あなたの恋人の一式小一郎様は! で、悪いことは申しません、永世の蝶の一匹の在家《ありか》を、一口お打ち明けなさいませ、そうしたら滝の水を止めましょう。そうして一式小一郎様と、あなたとをお助けいたしましょう」
で、じっと[#「じっと」に傍点]桔梗様を見た。
桔梗様は返辞をしなかった。云いたいにも云うことがないからであった。永生の蝶の一匹の在家《ありか》を事実知っていないからであった。
恐ろしい拷問と云わなければならない。
助けにやって来た恋人を、一方において水責めに、断末魔の時期を刻々に告げ、さらに一方では恐ろしい、腐蝕性ある醂麝液を、突き付けて威嚇するのである。永生の蝶の一匹の在家を、もし桔梗様が知っていたら、一も二もなく明かせたであろう。そうでなくとも桔梗様に、少しでも不純の心があったら、出鱈目の在家を告げることによって、一時の危難から遁がれたかも知れない。桔梗様にはそれは出来なかった。と云うよりむしろ桔梗様には、一時遁がれの口実等を、考える事さえ出来なかったのである。そんなにも心が純なのであった。
「一式様とご一緒に死ぬ! それこそ妾の本望だ。ちっとも妾は悲しくない。それにしても一式小一郎様は、どうして妾の居場所を、突き止めて助けに来られたのだろう? ……誘拐されたと感付いたので、小指を噛み切り、血をしたたらせ、そのことを懐紙へ認めて、櫛や簪に巻き付けて、幾個《いくつ》か往来へ落としたが、ひょっとかすると[#「ひょっとかすると」に傍点]その一つを、一式様がお拾いになり、それからそれと手蔓を手繰《たぐ》り、ここをお突き止めなされたのかも知れない。もしそうなら妾と一式様は、よくよくご縁があるというものだ。そういうお方と同じ場所で、同じ一味の悪者の手で、同時に殺されてこの世を去る。恋冥加! 怨みはない!」これが桔梗様の心持ちであった。
で少しも取り乱さなかった。とは云えやっぱり悲しくもあれば、また恐ろしくも思われた。で、泣きながら身顫いをし、顔から袖を放さなかった。
その間も南部集五郎の声は、戸口を通して聞こえて来た。
「三尺になるのも間もあるまい! 四尺になるのも間もあるまい! 五尺六尺となるだろう! 部屋が滝の水で一杯になろう。と窒息だ! すなわち溺死!」
ザ――ッ、ザ――ッと滝の音が、伴奏のように聞こえて来る。
と、またもや集五郎の声が、「腰まで浸《つ》いた! 腹まで浸いた! おおとうとう胸まで浸いた!」
ザ――ッ、ザ――ッと滝の音!
と、また集五郎の声がした。
「喉まで浸《つ》いたぞ! 頤《あご》まで浸いたぞ!」
ザ――ッ、ザ――ッと滝の音!
つと[#「つと」に傍点]華子は踏み出した。「まだ云わぬか! 汝《おのれ》強情! 云え云え云え、蝶の在家《ありか》を! まだ助かる、さあ桔梗!」
ヌ――ッと杖を突き出した。キラキラ光る黄金の杖! 水銀色の醂麝液が、その尖端で顫えている。
だがとうとう聞こえ来た。「口まで浸《つ》いたぞ! 鼻まで浸いたぞ! 水が全身を乗り越したぞ! 姿が見えない! 水ばかりだ! 溺れた溺れた! 一式小一郎は!」
「汝《おのれ》も共々!」と冷泉華子は、一気に杖を突き出した。「くたばれくたばれ! 殺してやろう!」
が、桔梗様はそれより早く、グ――ッと横仆しに転がった。気絶か、それとも本当の死か? 仆れた桔梗様は動かない。
恋人同志、桔梗様と小一郎は同時にこの世を去ったらしい。
だからこの時この館を目掛け、芹沢の方から七福神組が、手組輿に弁天松代を載せ、掠めた調子でエッサエッサと、掛け声を掛けながら馳せつけて来たが、手遅れになったと云わなければならない。
だが乱闘の始まったのは、それから間もなくのことであった。
三十七
裏門まで馳せつけた七福神組は、バラバラとそこで手を解いた。手組輿がこわれた。
ヒラリと下り立ったのは弁天松代で、ズ――ッと館を見廻わしたが、
「さあさあいよいよ乗り込みだ。唐の建物に則った、珍妙を極めた家のつくり、棟数も随分多いようだ。人数も大分こもっているらしい。七人の仲間がバラバラに、別れて探しにかかった日には、打って取られる恐れがある。成るたけ七人かたまって、片っ端から一棟ずつ、虱潰《しらみつぶ》し
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