ようか? 眼につければ眼が潰れる、鼻へ付ければ鼻がもげる[#「もげる」に傍点]、耳へ付ければ耳髱《みみたぼ》が、木の葉のように落ちてしまう! さあさあさあ、それそれそれ!」
そろり[#「そろり」に傍点]と杖を突き出した。距離を五寸に縮めたのである。
「お云い!」と華子はそこで云った。「お前は昆虫館館主の娘、蝶のありか[#「ありか」に傍点]を知っている筈だ! もう一匹、さあどこだ?」
そろそろそろそろと杖を出す。その杖の先と桔梗様の顔と今にも今にも触れ合おうとする。杖の先が顫えている。と一滴その先から、ポタリと滴が床に落ちた。幽かながらもジーッという音! ポーッと立ったは糸のような煙り! 小穴がまたも開いたものである。
怪奇な光景と云わざるを得ない。
龕から射している他界的の光、その中に立っている女方術師、背後《うしろ》で燃えている唐獅子型の火炉、その上に滾《たぎ》っている巨大な釜、……そうしてキラキラキラキラと、黄金の杖が輝いている。そうしてその杖の尖端から、水銀色の滴が落ち、落ちると同時に煙りが立ち、碁盤形の石畳へ穴を穿ける。
怪奇な光景と云わざるを得ない。――
桔梗様には夢のようであった。魘《うな》されていると云った方がいい。何が何んだか解らなかった。解っているのは次のことであった。
夕方叔父の屋敷から出て、隅田の流れを見ていると、突然背後から猿轡《さるぐつわ》を噛まされ、おりから走って来た駕籠に乗せられ、誘拐されたということである。誘拐されたと感付いたので、小指を食い切り血をしたたらせ、懐紙へそのことを認めて、持ち物へそれを巻き付けて、幾個《いくつ》か落としたということである。
三十三
「それでは妾を誘拐《かどわか》したのは、雌雄二匹の永生の蝶々の、ありかを云わせようためだったのか。……でも妾はありかは知らない。雌蝶の方はお父様が、昆虫館から放してしまった」――で桔梗様は当惑した。と云って黙ってはいられなかった。いつまでも黙っていようものなら、杖の先で顔を突かれるだろう。突かれたら顔へ穴が穿《あ》こう。トロトロに顔が融かされよう。
そこで桔梗様は云ったものである。
「存じませんでございます」それから正直に云いついだ。「雌雄二匹の蝶の中、雄蝶は盗まれてしまいました。随分探しましたが、目付けることは出来ませんでした。雌蝶の方はお父様が、手放してしまったのでございます。……雌雄二匹の永生の蝶々、只今どこにおりますや、存じませんでございます。……」それから嘆願するように、「叔父様が待っておりましょう、家へお帰しくださいまし。妾何んにも悪いことなど、致した覚えはございません。どうぞ虐《いじ》めないでくださいまし。本当に知らないのでございます。何んにも知らないのでございます。決して嘘など申しません。どこに蝶々がおりますやら、本当に知らないのでございます」
偽りのない態度である。偽りのない云い方である。そうして沈着《おちつ》いた様子である。
しかしそういう一切のものは、反対に見れば反対にも見られる。すなわち図太く見られるのである。
女方術師冷泉華子はどうやら反対に見たらしい。
「嘘をお云いよ!」と一喝した。とたんに引いたは黄金の杖で、斜めに上げると釜の中へ、再びボーンと突っ込んだ。引き上げると滴る水銀色の滴! と、その滴をしたたらせたまま、ズーッとその先を突きつけた。「お云い!」と云ったが憎さげである。「一匹逃がしたのは本当らしい。それを手に入れたのがこの妾だ! で、それは信じよう。盗まれたなどとは信じられない。そう甲斐|撫《な》でに盗まれるような、そんな永生の蝶でもなく、それにまた蝶を盗まれるような、ヤクザな館主でもない筈だ! お聞き!」と云うと歯を剥いた。惨酷に刺すように笑ったのである。「お前の父親昆虫館館主は、無双の学者で恐ろしい人物、唯一の証拠は最近まで、昆虫館のあり場所を、知らせなかった一事でも知れる。何んの貴重な永生の蝶を、他人に盗まれることがあろう。親子ひそかに巧らんで、どこかへ隠したに相違ない。お云い!」
と云うとスルスルと、黄金の杖を突き付けた。と滴がポッツリと落ち、ボーッと白煙が立ち上ったが、小穴がまたも出来たものである。
桔梗様は黙っている。ただ杖の先を見詰めている。云いたいにも云うことがないのである。
端然として動かない。
波の音が聞こえて来る。滝の落ちる音が聞こえて来る。依然部屋内は静かである。
と、どうしたのか冷泉華子は、ガラリと態度を一変した。まず突き付けた杖を引き、片膝を突くと首を延ばし、愛想笑いを眼に湛え、その眼で桔梗様の顔を覗き、猫撫で声で云い出したのである。
「立派なお心掛けでございますよ。そうでなければなりますまい。それでこそ昆虫館館主の令嬢、感心を致してございますよ。……云わぬと決心したからには、そこまで徹底しない事には、本当の女丈夫とは申されますまい。嚇して聞こうと致したは、妾の間違いでございました。もうもうすることはございません。……が、桔梗様、そうは云っても、妾も女方術師の、冷泉華子でございますよ。これと一旦決心したことは、きっとやり通してお目にかけます。たとえば……」というと冷泉華子は、いよいよ声を優しくしたが、「たとえばあなたを隅田の屋敷から、ここへお連れして来ましたのも、そうしてあなたが、三浦三崎の、木精《こだま》の森から下られて、江戸へおいでになりました事を、探って知ったのも妾でございます。もっとも直接それをしたは、妾の部下で一ツ橋の家臣の、南部さんというお侍さんと、その一味ではございますが、命じたのは妾でございます。……いやそればかりではございません。まだ色々のことを知っております。昆虫館が閉ざされたこと、郷民がみんな立ち去ったこと、みんな探って知っておりました。知ろうと思えばどんなことでも、きっと妾は知ってみせます。で……」と云うと冷泉華子は、穏かではあるが気味の悪い、叮嚀《ていねい》ではあるが威嚇的の、矛盾した微笑を浮かべたが、「で、あなたがどう隠し、どう口をお噤みなさろうと、最後には一匹の蝶のありか[#「ありか」に傍点]を、きっと云わせてお目にかけます。つまりあなたと致しましては、隠すだけが損なのでございます。いつまでも強情にお隠しになると、好んでしたくはございませんが、今度こそ本当に醂麝《りんじゃ》液で、あなたのお美しい顔や手を、焼け爛《ただ》らせてお目にかけます。オヤオヤ」と華子は苦笑《にがわら》いをした。「またも妾の厭な癖の、嚇しの手が出たようでございますね。いえ嚇しません嚇しません、嚇して口を開くような、そんな臆病な桔梗様ではなかった筈でございますから。……嚇すどころではございません、お願いするのでございます。どうぞお明かしくださいませ、どうぞお知らせくださいまし、永生の蝶の一匹のありか[#「ありか」に傍点]は、いったいどこなのでございましょう」
どんなに云われても桔梗様には、返事をすることが出来なかった。永生の蝶の居場所を、真実知っていないからである。
首をうなだれた[#「うなだれた」に傍点]桔梗様は、ただ繰り返すばかりであった。
「妾嘘は申しません。どこに蝶がおりますやら、存じませんでございます。どうぞ虐めないでくださいまし。どうぞ叔父様のお屋敷へ、お帰しなすってくださいまし」
両袖を顔へあてたのは、涙を見せまいとしたのだろう。やがて泣き声が洩れて来た。肩が細かく波を打つ、耳髱へかかった後毛《おくれげ》が、次第に顫えを増して来る。
三十四
しばらく見ていた冷泉華子は、舌打ちをすると突っ立った。取り上げたのは黄金の杖で、引きそばめると後退《あとしざ》りし、煮えている釜の横手まで、一気にスーッと引っ返した。
「なるほど!」
と云ったが凄じい声だ!
「なるほど、それほどの強情なら、殺されるまでも明かすまい。……女よ! お死に! 殺してあげよう! 嬲《なぶ》り殺しだ、まずこうだ!」
ジーンと不気味の音がした。杖を釜の中へ入れたのである。湯気が渦巻き立つ。それを貫いて斜《はす》かいに、黄金色の線が引かれている。すなわち黄金の杖である。そろそろとそれが引き上げられた。と杖の先が現われた。弧を描いてその先が、部屋の空間へ差し出された時、ポッツリと一滴水銀色の滴が、石畳の上へしたたった。ボーッと上がったのは煙りである。石畳へ出来たのは小穴である。幽かな顫えを見せながら、杖の先が延びて行く。それの止まった正面に、両袖で顔を蔽い隠した、桔梗様の姿がうずく[#「うずく」に傍点]まっている[#「姿がうずく[#「うずく」に傍点]まっている」は底本では「姿がうず[#「がうず」に傍点]くまっている」]。それを黄金の杖で繋ぎ、向かい合って延々《のびのび》と立っているのが、女方術師の華子である。
黒の道教の道服を纒い、真っ直ぐに立っている華子の姿は、太くて円い墨の柱が、一本立っているようであった。その頂上に白い物がある。仮面のように冷静な顔である。まくれ上がった唇から、上の前歯が露出している。鈍い銀色の真珠貝、そんなように見える二つの眼が、一点をじっと見詰めている。
「さあ桔梗様、両袖を、顔からお取りなさいまし」
命ずるような声である、催眠性を持った声である。反抗することは出来ないだろう――そんなように思われる声であった。
「はい」
と云ったのは桔梗様である。
と、桔梗様は袖を取った。涙で洗われていよいよ益※[#二の字点、1−2−22]、可憐にも見え美しくも見える、桔梗様の顔が現われた。
「綺麗なお顔でございますこと」
黄金の杖を差し向けながら、華子は冷やかに云ったものである。
「左の眼から焼きましょうか。それとも右から焼きましょうか。ドカリと二つの真っ暗な穴が、顔へ出来るでございましょう。口があって鼻があって、そうして眼だけが二つながらない、どんなに変った面白い顔が出来上がることでございましょう」
杖の先を次第に近づけた。桔梗様は見詰めている。放心したような眼つきである。眼を放すことが出来なかった。黄金の杖に磁気があって、それが引きつけているように、眼を放すことが出来なかった。だが心ではハッキリと、こんなことを考えていた。
「妾は決して殺されはしまい。妾は怪我《けが》だってしないだろう。何も悪いことをしないのだから。冷泉華子という人は、冗談をしているのだろう。妾を嬲っているのだろう」
だがもし桔梗様が眼を上げて、華子の顔を一眼でも見たら、そういう考えは消えてしまったろう。
華子の顔は無表情であった。まるで事務的の顔であった。どこにも感情は見られない。惨酷な精神の持ち主が、惨酷の行いをやる場合、多くは無表情の顔になる。その惨酷な無表情な顔が、今の華子の顔であった。
杖の先がだんだん延びて行く。その先から今にも滴ろうとして、水銀色の醂麝液が、顫えを帯びて光っている。と、杖の先が、一息に、桔梗様の左の眼へ延びて来た。
この時外から聞こえて来たのが、「一式小一郎、田安家の家臣、我々の秘密の道場へ潜入致してございますぞ! 出合え!」という声であった。
「あッ、それでは一式様が!」
叫んで立ったのは桔梗様である。
と、ひときわ甲《かん》高く、リーンという音がした。すなわち華子が黄金の杖を、石畳の上へ突いたのである。
一本二本目の矢を払い、難を遁がれた小一郎は、築山を背に木立を前に、例によって太刀を下段に構え、この時ホッと息吐いたが、敵勢百人はあるだろうか、四方八方取り囲まれ、遁がれ出る隙間はなさそうであった。
と、左右から二人の敵が月光を刎ねて飛び込んで来た。
「うむ」と呻いたが小一郎は、左の一人へ太刀をつけ、瞬間足を踏み交《ちが》えると、右手の一人へ太刀をつけた。
左手の一人は肩を割られ、右手の敵は真っ向を割られ、等しく弓のように反り返ったが、月でも捕えようとするように、両手を高く上げたかと思うと、そのまま延びて仆れてしまった。
スッと後へ引いた小一郎を追って、突き出
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