郎ではあったが、怒りでそれさえ失ってしまった。
「三人血祭りに叩っ切り、その上で家内へ切って入り、桔梗様をこっちへ取り返してやろう」
 身を平《ひら》めかすと背をかがめ、暗い木蔭を伝わったが、行手へ先廻わりをしたのである。
 築山があって築山の裾に、石楠花《しゃくなげ》の叢が繁っていた。無数に蕾を附けている。蔭へ身を隠した小一郎は、刀の鯉口をプッツリと、切り、ソロリと抜くと左手を上げ、タラリと下がった片袖の背後《うしろ》へ、右手の刀を隠したが、自然と姿勢が斜めになる、鐘巻流での居待《いま》ち懸《が》け、すなわち「罅這《こばい》」の構えである。
「来い!」と心中で叫んだが、「一刀で一人! 三太刀で三人! 切り落とすぞよ、アッとも云わせず!」
 ムッと気息をこめた時、ヒョッコリ一人現われた。
 それを見て取った小一郎は、斜めの姿勢を閃めかし、正面を切ると肘を延ばし、一歩踏み出すと横払い! 四辺が木立で暗かったので、ピカリとも光りはしなかったが、狙いは毫末も狂わない、耳の下からスッポリと、一刀に首を打ち落とした。
 と、切られたその侍であるが、そこだけは月が射していた、その中でちょっとの間立っていたが、やがて前仆れに転がった。
 もうこの頃には小一郎は、刀をグルリと背後へ廻わし、元の位置へ返ってひそまっていた。
「おいどうした?」
 と云う声がして、二人目の人影が現われた。
「つまずいたのか? 転んだのか? 生地《いくじ》がないなあ、起きろ起きろ」
 トンと立ち止まって同僚の死骸を――死骸とも知らず見下した時、全く同じだ、小一郎は、一歩踏み出すと、肘を延ばし、颯《さっ》と一刀横っ払った。これも同じだ、首を刎ねられた敵は、そのまま一瞬間立っていたが、すぐ前仆れにぶっ[#「ぶっ」に傍点]仆れた。
「あッ」と叫んだは三番目の武士で、「曲者でござる! 狼藉者でござる!」
 身を翻えして逃げようとした。
 猛然と飛び出した小一郎は、全身を月光へ浮かべたが、
「騒ぐな」
 と抑えた辛辣の呼吸! とたんに太刀を振り冠り、脳天からザックリと鼻柱まで、割り付けて軽く太刀を引いた。
 プーッと腥《なまぐさ》い血の匂い! その血の中に三つの死骸が、丸太ン棒のように転がっている。
 見下ろした一式小一郎は、ブルッと体を顫わせたが、血顫いでもあれば武者顫いでもあった。
「さあ三人、これで退治た、……桔梗様は? 桔梗様は?」
 血刀を下げて小一郎が、館の方へ走ろうとした時、詰所らしい建物の雨戸が開き、数人の武士が現われた。屋内から射す燈火で、ぼんやりと輪廓づけられている。
「騒々しいの、何事でござる」
 一人の武士が声をかけた。衆の先頭に身を乗り出し、縁側の上に立っている。まさしく南部集五郎であった。
 早くも見て取った小一郎は、新しく怒りを燃え立たせたが、「集五郎!」とばかり走り寄った。「拙者だ、拙者だ、一式小一郎だ! ……卑怯姦悪未練の武士め! よくも桔梗様を誘拐《かどわか》したな! 出せ出せ出せ! 桔梗様を出せ!」
 血に塗られた一竿子忠綱を、突き出すとヌッと迫《せ》り詰めた。
「おっ、いかにも汝《おのれ》は一式! やあ方々!」と集五郎は、仰天した声を張り上げたが、「一式小一郎、田安家の家臣、我々の秘密の道場へ、潜入致してございますぞ! 出合え出合え! 打って取れ!」
 幾棟か館が建っている。その幾棟かの館の戸が、声に答えて蹴放され、槍を持った武士、半弓を持った武士、捕り物道具を持った武士が、ちょうど雲でも湧くように、群れてムクムクと現われて、小一郎をおっ取り囲んだのは、実にその次の瞬間であった。
「しまった!」と小一郎は呻いたが、要害さえも解っていない、敵は目に余る大勢である、飛び道具さえ持っている、どうする事も出来なかった。
「ううむ、残念、軽率であったぞ」
 摺り足をして後退《あとじ》さる。
 築山を背負い、木立を楯に、膝折り敷いて下段の構え、小一郎は備えは備えたものの、どうにも勝ち目はなさそうである。
 月が明るいので敵勢が見える。自分の姿も見えるだろう。
 とパッチリ音がした。すなわち弦返りの音である。敵の一人が射たらしい、征矢《そや》が一本月光を縫い、唸りを為《な》して飛んで来た。
 際どく飛び違って小一郎は、刀を上げて払ったが、すぐに続いてもう一本!
 あぶない、あぶない、あぶない、あぶない! ……だがこの時リーンという、微妙な音色の聞こえたのは、いったいどうしたというのだろう?

        三十一

 ここは館の一室である。――
 一人の女が仆れている。
 髪がグッタリと崩れている。裾が淫りがわしく乱れている。死んでいるように動かないが、決して死んでいるのではない。幽かながらも呼吸をしている。どうやら気絶をしているのらしい。誰だろういったいこの女は? 他でもない桔梗様であった。
 と、桔梗様は眼を開けた。
「おや妾はどうしたんだろう?」呟くと衣裳を調えた。「まあ奇妙なお部屋だこと」
 で、グルリと見廻わして見た。眼についたのは大釜である。部屋の正面に据えてある。三人以上の大男が、両手を繋いで抱えなければ、抱えることは出来ないだろう――そんなにも大きな釜であった。そこから湯気が上っている。熱湯が湛えてあるらしい。釜の下には火炉がある。焔がカーッと燃えている。釜の形は筒形である。上の方で花のように開いている。そうして周囲には彫刻《ほりもの》がある。どうでも日本風の釜ではない。古代唐風の釜である。火炉もやっぱり唐風である。唐獅子の首だけを切って来て、押し据えたような形である。ワングリ開いた巨大な口! そこが火口になっている。燃えている焔の真紅の色が、まるで血汐でも含んでいるようだ。
 火炉と釜との背後《うしろ》にあたって、大きな棚が置いてある。一|個《つ》ではない、三|個《つ》である。で正面の部屋の壁は、棚ですっかり埋められている。棚には幾個か段がある。段には壺が載せてある。壺の数は無数である。そうして形が各自《めいめい》異う。角形のもの、円形のもの、菱形のもの、円錐形のもの、八角形のものもある。そうしてその色も異っている。ある壺は紫色を呈している。ある壺は青磁色を呈している。
 薬を盛った壺らしい。
 薬棚の前、釜の横、そこに彫像が立っていた。等身大の像である。まるで生身の人間のようだ。そんなにも活々とした像なのである。今にも物を云いそうである。しかし唇は結ばれている。唇の色の美しさ! 紅を塗ったように紅である。だが顔色は蒼白い。端麗な女の顔である。開いたらどんなに美しかろう? そう思われるような両眼が、軽く軟かく閉ざされている。棘のように高い鋭い鼻、それはむしろ兇相である。肩へかかった髪の黒さ! いや黒いのは髪ばかりではない。着ている衣裳も漆黒である。が形は日本風ではない。胸に刺繍が施してある。裾にも刺繍が施してある。袖は長く指先を蔽い、その形は筒形である。道教の奉仕者方術師、その人の着るべき道服なのであった。すなわちそこにある彫像は女方術師の彫像なのであった。片手に杖を持っている。何んとそれは黄金ではないか! 黄金の杖を持っているのである。
 美しい女の像ではあるが、全体に凄く幽鬼的で、ゾッとするようなところがある。
 彫像である! 動かない! がもしそれが動いたら、一層物凄く思われるだろう。
 部屋全体が煙っている。紫陽花《あじさい》色に暈《ぼ》かされている。とは云え煙りこめているのではない。それは光の加減からであった。
 穹窿形をした組天井、そこから龕が下っている。瓔珞《ようらく》を下げた龕である。さあその容積? 一抱えはあろうか! 他界的な紫陽花色の光線が、そこから射しているのであった。
 部屋の四方は板張りである。板張りは純白に塗られている。釜の据えてある左手に、錦の帳《とばり》が懸けられてある。部屋の外へ通う戸口だろう。深い襞を作っている。襞の窪《くぼ》みは蔭影《かげ》をつくり、襞の高みは輝いている。
 足が冷々と冷たかった。で桔梗様は床を見た。床は石畳になっていた。白と黒との碁盤形、それに畳まれているのである。
 シン、シン、シンと湯の煮える音! それが唯一の音であった。
 が、もう一つ音がした。ドーン、ドーンという音である。岸にぶつかる波の音だ。非常に遠々しく聞こえて来る。
 それからもう一つ音がした。ドン、ドン、ドン、ドンという音である。滝の落ちるような音である。
 その他には音はない。部屋内は気味悪く静かである。
 気丈で無邪気な桔梗様にも、この光景は恐ろしかったらしい。
「ここはいったいどこなんだろう」顫え声で呟いたものである。
 と、すぐに声がした。「錬金部屋でございます。女方術師|蝦蟇《がま》夫人、その本名は冷泉華子、その人の部屋でございます。……所は海岸、芹沢の郷、……江戸の中ではございません。……建てたお方は一ツ橋様! そうしてあなた様は囚人《とらわれびと》で、逃げようとなされても逃げられません。……そうして妾こそその華子なので。でも恐れるには及びません。無益に危害は加えません。……で、お答えなさりませ、これから妾のお訊きすることに!」
 彫像が物を云ったのである。

        三十二

 釜の横に立っていた女の彫像、それが物を云ったのである。いやいや彫像ではなかったのであった。蝦蟇夫人事華子なのであった。
 桔梗様が気絶から蘇甦《よみがえ》るのを、それまで待っていたのらしい。
 と、華子は一足出た。閉じていた眼が見開かれている。結んでいた口が綻びている。眼には針のような光がある。捲くれた唇から見える歯にも、刺すような冷たい光がある。
 と、リーンと音がした。手に持っていた黄金の杖を、石畳の床へ突いたのである。
「昆虫館主のお嬢様の、桔梗様へお訊ね致します。雌雄二匹の永生の蝶の、その一匹は手に入れました、さようでございます、この華子が! もう一匹の蝶のありか[#「ありか」に傍点]を、さあさあお教えなさりませ」
 またも一足踏み出して、またも黄金の杖を突いた。と、リーンと美しい音色が、部屋へ拡がったものである。
 事の意外に桔梗様が、ポッカリとその口を無邪気に開け、ポッカリとその眼を無邪気に見張り、しばらく物の云えなかったのは、当然なことと云わなければならない。
 もちろん返辞はしなかった。もちろん微動さえしなかった。呆然見詰めているばかりであった。
 この桔梗様のそういう態度は、見ようによっては図々しくも、また大胆不敵にも見える。
 それが華子を怒らせたらしい。俄然態度を変えたものである。
「オイ」と云ったが、その声は、優しい女の声ではなく、残忍な悪婆の声であった。「処女《おぼこ》に似わず図々しいの、フフンそうか、そう出たか、よろしいよろしいそう出るがいい。が、すぐにも後悔しよう、顫え上がるに相違ない、悲鳴を上げるに相違ない、そうして許しを乞うだろう、見たようなものだ、見たようなものだ! まず!」
 というと冷泉華子は、そろそろそろそろと黄金の杖を、斜めに上へ振り上げた。
「打ちはしないよ。何んの打とう、もっともっと凄いことをする。……ご覧!」
 と今度は嘲笑った。と、クルリと身を廻わし、釜の方へスルスルと寄ったかと思うと、振り上げていた杖を斜《はす》かい[#「かい」に傍点]に、グーッと釜の中へ突っ込んだ。瞬間湯気が渦巻いたが、すぐに杖を引き出した。尖端《せんたん》から滴たったは水銀色の滴《しずく》で石畳へ落ちたと見る間もなく、どうだろう石畳の一所へ、小穴が深く穿《うが》たれたではないか! 水銀色の滴には、世にも恐ろしい力強い、腐蝕作用があるのらしい。
 と、華子であるが腕を延ばすと、スーッと杖を突き出した。桔梗様の顔から一尺のこなた、そこまでやると止めたものである。
「穴が穿《あ》きましょう、綺麗な顔へ! 鉛を変えて黄金とする、道教での錬金術、それに用いる醂麝《りんじゃ》液、一滴つけたら肉も骨も、海鼠《なまこ》のように融けましょう、……さて付ける、どこがいい? 額にしようか頬にし
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