だのに、どんな手段で誘拐されたのだろう?
 そうして一式小一郎は、はたして駕籠へ追い付いて、取り返すことが出来るだろうか?
 今、月夜の東海道は、人通りがなくて静かである。
 と、その時江戸の方から、一つの掛け声が聞こえて来た。「エッサ、エッサ、エッサ、エッサ!」――だんだんそれが近付いて来る。と、間もなく月光に浮かび、畸型な群像が現われた。屈竟な六人の若者が、体をピッタリくっつけ[#「くっつけ」に傍点]合わせ、六本の腕を組み合わせ、巧みに作った「手組輿《てくみこし》」――その上へ一人の女を乗せ、空いている片手で調子を取り、舞うように走って来るのであった。七福神と称されて当時の旗本や大名などに、非常に恐れられた怪盗である。彼らの掛けるエッサの声が、水上であれ陸上であれ、一旦掠めて通った後には、犠牲者が出来たという事である。だが決して細民や、女子供など襲ったことはなく、衣裳だの宝物だの器具調度だの、そんな物を盗んだこともなく、黄金か武器か弾薬かを、唯一に盗んだということである。町方でも苦心して捕えようとしたが、捕えることが出来なかったそうだ。「ある素晴らしく高貴な方が、蔭ながら保護をしているからだ――」ある方面での噂であった。町方で探ったところによると、蛭子《えびす》三郎次、布袋《ほてい》の市若、福禄の六兵衛、毘沙門の紋太、寿老人の星右衛門、大黒の次郎、弁天の松代、これが彼らの名であって、弁天の松代が一党の頭《かしら》で、そうして松代は美しい、若い女だということであった。彼らが水上を駛《はし》る時は、宝船に則った軽舟を用い、また陸上を走る時は、彼ら独特の「手組輿」――そういうもので走ったそうである。
 その怪盗の七福神組が、今や走って来たのであった。
 手組輿とは変なものではあるが、要するに七人が七人ながら、心と体とを一つに食っ付け、一緒の行動を取ろうがために、彼らの案じた人間輿で、意味深いものでもなさそうである。しかし七人が心身を一にし、一致の行動をとるのであるから、自由の活動、敏速の歩行、これは出来るに相違ない。
 何んと云う速さだ! 走って来る!
 と、突然女の声がした。「おっと待ったり、お止めお止め!」「合点」と一団止まってしまった。同時にバラバラと手組輿が崩れ、ヒラリと飛び下りたは一人の女で、髪は結綿、鬼鹿子、黄八丈の振り袖を纒っている。頭の弁天松代である。手を延ばすと地面から、何かをヒョイと取り上げたが、月に翳《かざ》すと、「やっぱりそうだ!」
「え?」と六人が同音に声を掛けたが首を延ばした。手甲脚半腹掛け姿、軽快至極の扮装《みなり》である。一同お揃いの姿である。
「桔梗様の持ち物の銀簪が落ちていたのさ、これここにね。月が当たってピカピカと光っていたから目付かったのさ」
「それじゃア姐《あね》ごの思惑通り、こっちへ攫《さら》われて来たんだな」腕に蛭子《えびす》の刺青のある小頭の蛭子三郎次である。
「それじゃアどこかに血で書いた、小菊の紙が落ちていなけりゃアならねえ」こう云ったのは十七、八の前髪のある男である。すなわち布袋の市若である。
「ところがどこにもねえようだぜ」四方《あたり》をキョロキョロ見廻わしたのは、三十を一つ二つ越したらしい、顔の細長い男であったが、これ福禄の六兵衛であった。
「なにさなにさ風だって吹く、どこかへ飛ばされて行ったんだろう」こう云ったのは爺むさい小男、他ならぬ寿老人の星右衛門。
「さっき浅草で拾ったのは、これも桔梗様の持ち物? ※[#「王+毒」の「毋」に代えて「母」、第3水準1−88−16]瑁《たいまい》の櫛へ巻き付けた血書! そうしてここには銀簪! とするとこれからも要所々々へ、何か品物を落とすものと見える」こう思料深く云ったのは、四十がらみの大男、すなわち大黒の次郎である。
「何はともあれ走ろうぜ」こう云ったのは髯面の男、「突っ立っていたって仕方がねえ」こいつは毘沙門の紋太である。
「そうともそうともさあ行こう」弁天の松代は意気込んだ。「思案している時じゃアない。桔梗様には処女《おぼこむすめ》だ。一刻半時の手違いで、取り返しの付かない身ともなる。それこそ泣いても泣かれない。それにしてもさ、一体全体、どいつがこんなことをしたんだろう。七福神組を出し抜いて、途方もない真似をしゃアがる。と、云って怒ったってはじまらない。見付け出すより仕方がない! ……さあさあお組みよ、手組輿を!」

        二十九

 声に応じて六人の男は、颯と片手を差し出したが、肩と肩とをすぐ組んだ。ガッシリ手輿が築かれたのである。
「お乗んなせえまし。さあ姐ご!」
「あいよ、あいよ、ソレ乗るよ」
 裾を翻《ひら》めかすと燃え立つ蹴出しだ、火焔が立つかと思ったが、弁天松代ちゃアんと[#「ちゃアんと」に傍点]乗った。
「急いでおやりよ! さあおやり!」
「おっと合点」
「エッサ、エッサ」
 こんな場合にも愉快そうに、こんな場合にも仲がよく、月光を蹴散らし走り出した。

 ちょうどこの頃のことである。全然別の方角で、別の事件が起こっていた。
 ここは赤坂青山の一画、そこに一宇の大屋敷がある。大大名の下屋敷らしい。宏壮な規模、厳重な構え、巡らした土塀の屋根を越し、鬱々と木立が茂っている。
 御三卿の一方田安中納言家、そのお方《かた》の下屋敷である。
 その裏門が音なく開き、タラタラと一群の人数が出た。黒仕立てに黒頭巾、珍らしくもない密行姿、いずれも武士で十五、六人、ただしその中ただ一人だけ、黒小袖に黒頭巾、若い女が雑《まじ》っていた。みんなが尊敬をするところを見ると、これら一群の支配者らしい。身長高く痩せてはいるが、一種云われぬ品位がある。鬼気と云った方がいいかも知れない。あるいは妖気と云うべきかも知れない。縹渺《ひょうびょう》としたところがある。裾の辺が朦朧と暈《ぼ》け、靄でも踏んでいるのだろうか? と思わせるようなところがある。
 一挺の駕籠が舁ぎ出された。
「鉄拐ご夫人、お召しなさりませ」
 一人の武士が会釈した。
 すると頷いたが乗ろうともせず、駕籠の上へ片手を載せたまま、女方術師鉄拐夫人は、頸《うなじ》を反らせると空を見た。
「とうとう後手へ廻わされて、永生の蝶一匹を、一ツ橋家へ取られたが、今度はどうでも先手を打ち、あの桔梗という森の娘を、こっちへ奪って来なければならない。だが迂濶《うかつ》に立ち廻わると、今度も煮え湯を飲まされそうだよ。現に攫《さら》われてしまったんだからねえ」
 心配そうに呟いた。
「だが行先は解っている。それだけがこっちの付け目だろうさ。それもさ街道を辿って行けば、随分時間もかかるだろう。近道を行けば何んでもない。柵頼《さくらい》柵頼」と声をかけた。
「は」と云って進んだのは、今会釈をした武士であった。
「神奈川の宿から海の方へ、ずっと突き出た芹沢の郷、そこまで近道を走っておくれ」
「かしこまりましてござります」
「道の案内は妾がしよう、ああそうだよ。駕籠の中からね。さあそれでは戸をお開け」
 コトッと駕籠の戸が開いた隙から、スルリとはいった女方術師、
「それではおやり、足音を立てずに」
 駕籠を包んだ田安家の武士達、トットットッと、走り出したが、見当違いの玉川の方へ、駈け去ってやがて見えなくなった。
 月ばかりが後を照らしている。
 シ――ンと界隈静かである。
 いやいや界隈ばかりでなく、江戸内一帯静かであろう。
 敢て江戸内ばかりでなく、日本国中夜のことだ。少くも昼間よりは静かだろう。
 がしかしそれは表面だけのことで、裏面においては昼間よりも、さらに一層夜だけに、罪悪が行われているかもしれない。

 まさしく罪悪が行われていた。
 芹沢の郷の海岸に、不思議な建物が立っていた。
 その中で行われていたのである。
 その建物の珍奇なことは!

        三十

 海に臨んで造られた館《やかた》は、一口に云えば唐風であった。幾棟かに別れているらしい。鶴の翼を想わせるような、勾配の劇しい瓦屋根が、月光に薄白く光っている。しかし館は土塀に囲まれ、その上森のように鬱々《うつうつ》とした、庭木にこんもり取り巻かれているので、仔細に見ることは出来なかった。
 館の一方は海である。岸へ波が打ち上げている。白衣の修験者でも躍るように、穂頭が白々と光っている。館の三方は曠野である。木立や丘や沼や岩が、月光に濡れて静もっている。遙か離れて人家がある。みすぼらしい芹沢の里である。
 と、その時里の方から、一挺の駕籠が走って来た。二、三人の武士が守っている。館の方へ走って来る。
 その裏門まで来た時である、内と外とで二声三声、問答をする声がした。
 と、門が音なく開き、音なく駕籠が辷り込んだ。
 後に残ったは月ばかりである。蠢《うご》めくものの影さえない。館からも何んの物音もない。沼で寝とぼけた水鳥が、ひとしきり羽音をバタバタと立てたが、すぐにそれも静まってしまった。
 だが間もなく人影が、ポッツリ丘の上へ現われた。館の方を見ているらしい。と、丘を馳せ下った。
 月に曝《さら》された顔を見れば、他ならぬ一式小一郎であった。
「確かにここへはいった筈だ」
 土塀に沿って小一郎は、館の周囲を廻わり出した。
「うむここに裏門がある」
 そっと裏門を押してみたが、ゆるごう[#「ゆるごう」に傍点]とさえしなかった。で、またそろそろと歩き出した。やがて表門の前へ出た。押してみたがやっぱりゆるぎ[#「ゆるぎ」に傍点]さえしない[#「やっぱりゆるぎ[#「ゆるぎ」に傍点]さえしない」は底本では「やっぱりゆる[#「りゆる」に傍点]ぎさえしない」]。でまたそろそろと歩き出した。もうどこにも出入口はない。
「さてこれからどうしたものだ?」土塀に体をもたせかけ[#「もたせかけ」に傍点]、一式小一郎は考え込んだ。
「桔梗様をさらった駕籠の姿を、やっと神奈川の宿外《はずれ》で目付け、後を追っかけてここまでは来たが、こんな不思議な建物の中へ、引き込まれようとは思わなかった。いったいどういう建物なんだろう?」
 だが酷《ひど》く胸が苦しかった。非常に息切れがするのである。走りつづけて来たからである。
「休もう、万事はそれからだ」
 地面へ坐って胡座《あぐら》を組み、小一郎は心を押し静めた。
「いやこうしてはいられない」小一郎はにわかに立ち上がった。
「どんな危険が桔梗様の上に、ふりかかっていないものでもない。館の中へ忍び込み、何を置いても様子を見よう」
 土塀へ体を食《く》っ付けたが、武道で鍛えた身の軽さ、一丈以上の高さを飛び、ポンと向こう側へ飛び下りた。
 飛び下りたが音さえ立てなかった。胸をピッタリ地面へおっつけ、腹這いになって様子を見た。庭木が真っ暗に繁っている。ところどころに斑のように、葉漏れの月光が射している。ずっと奥深い正面に、建物が一つ立っている。
「まずあれ[#「あれ」に傍点]から探ってみよう」
 そこでソロリと立ち上がり、小一郎は忍びやかに歩き出した。
「役目は終えたというものさ」不意に人声が聞こえて来た。いかつい[#「いかつい」に傍点]男の声である。
「有難い役目ではなかったよ」これはゾンザイな声であった。
「美人誘拐というのだからの」
「それもさ」ともう一人の声がした。「口を開かせて秘密を云わせ、云わせた後では南部氏が、手に入れようというのだからの」
 三人の人影が現われた。
「あれほどの美人を手に入れる、ムカムカするの、うらやましくもある」
「詰所へ帰って酒でも飲もう」
 三人ながら武士であった。広大な庭の反対側に、別の建物が立っていたが、そこが彼らの詰所と見える。木立を縫って築山を越して、小一郎が窺っているとも知らず、庭下駄の音をゆるやか[#「ゆるやか」に傍点]に立て、三人そっちへ歩いて行く。
 こいつを聞いた一式小一郎が、怒りを心頭に発したのは、まさに当然というべきであろう。
「さては桔梗様を攫ったのは、南部集五郎の一味だったのか。憎い奴らだ、どうしてくれよう」
 平素《ふだん》は思料深い小一
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