いる。秘術を行っているところだ。鉄拐仙人には髷があり、蝦蟇仙人には髷がない。で前者は老人に見え、そうして後者は老婆さんに見える。
二人ながら物凄くいやらしい。
ちょっとの間部屋中静かであった。
対に立ててある雪洞《ぼんぼり》の灯が、蒔絵の脇息を照らしている。それに悠然と倚っている、葵ご紋の武士の顔は、昆虫館主人と非常に似ている。広い額、窪んだ眼窩、きわめて高い高尚な鼻、しかし異ったところもある。昆虫館主人は白髪だのに、こっちは艶々しい黒色である。昆虫館主人の眼と来ては、霊智そのもののような眼であったが、こっちの眼は意志的英雄的である。昆虫館主人よりも身長《たけ》が高く、そうして一層肥えてもいる。健康そのもののような体格である。昆虫館主人は学究として、あくまでも真面目、あくまでも真剣、しかるにこっち葵ご紋の武士は、洒々落々としたところがあり、人を食ったようなところがある。
だがいったい葵ご紋の武士は、何んという姓名を持っているのだろう? 世間の人達は敬称して、隅田のご前と云っている。葵の紋服を着ている以上、将軍家の連枝には相違あるまい。
隅田のご前を前に置き、端然と坐っている桔梗様と来ては、清浄で、美しくて、自由で無邪気で、いかにもいかにも処女というものを、掬い固めたような俤《おもかげ》がある。
この二人の対照は、全く一幅の絵と云っていい。
まだ二人は黙っている。
と、どこから来たものか、四方雨戸をとざしてあるのに、一匹の火捕《ひと》り虫が飛んで来た。バタバタバタバタと雪洞へ中《あた》る。
「遅いの」と不意に隅田のご前は、独り言のように呟いた。それが桔梗様の気にかかったらしい。
「誰をお待ちでございます!」
「ああ待ち人かな、泥棒さん達だよ」隅田のご前は道化出した。「私はな、大変な大泥棒だ。で沢山手下がある。その手下を待っているのだよ」無邪気な可愛い桔梗様を、嬲《なぶ》ってみるのが面白いのらしい。
「おやおやさようでございますか」桔梗様は一向驚かない。「妾もお待ち致しましょう」
「ご用でもあるかな、私の手下に」
「はいはい沢山ございますとも、参りましたらとっ[#「とっ」に傍点]捉まえ、忍び込みの術を教わります」
「あッ、話はそこへ行くのか、忍び込みの術を教わって、その恋しいお侍さんを、探しに行こうというのだの」
「はいはいさようでございますとも。でもねえ叔父様、実を申せば、もう一つ大切なご用があって、探しているのでございますの。その一式様というお侍さんを」
「ほほう」とご前眼を円くした。「その恋男のご姓名は、一式様というようだの」
「一式小一郎様と申します」
「で、何かの、大切の用とは?」どうやら興味を持ったらしい。
「お父様からお預りをした、大事な大事な大事な物を、お渡ししたいのでございます」
「何?」と云うと隅田のご前は、いくらか驚いた様子があった。「それでは何かの、お前のお父様も、承知しておられるご仁かの、その一式という人物は?」
「私達の住居の昆虫館へ、訪ねておいでくださいました時、お父様もお逢いでございました。そうしてお父様もそのお方を、大変好かれたのでございます」
「ふうん」と云ったが真面目になった。「私はそうとは知らなかったよ、そんな恋人の話など、お前の出鱈目と思っていたよ。うむうむそうか、本当の話か。で、何かの、大事なものとは?」
「はいこれでございます」
何か帯から出そうとした時、隅田川の方から声がした。
「エッサ、エッサ、エッサ、エッサ」それはこう云う声であった。
そうしてこの声が次第に近付き、隅田のご前の屋敷の前で、にわかにプッツリと切れてしまい、つづいて幽かではあったけれど、水門の開く音がした時から、この物語の局面は、新しく展開されることになった。
まず隅田のご前様が「来たな」と云うと立ち上がり、それから桔梗様へ云ったものである。
「お前もおいで! 度胸がある。見せて置いてもいいだろう。……紹介《ひきあわ》せて置こう、変った奴らを。無頼漢《ならずもの》どもだがためにもなる奴らだ」
で、部屋から廻廊へ出た。云われるままに立ち上がり、桔梗様が後から従った。
少し行くと階段になる。螺旋《らせん》形をした階段である。下り切った所に池があった。隅田の川水を取り入れて、作ったところの池らしい。小さい入江! こう云った方がいい。小|船渠《ドック》! こう云った方がいい。水がピチャピチャと石段を洗い、小波をウネウネと立てている。石段の左右に龕《がん》ある。青白い燈火《ひかり》が射しいる。その燈火に照らされて見えるのは、七福神の宝船、それに則って作られた船と、満載されてある武器弾薬と、そうしてそれへ乗り組んでいる、七人の異様な水夫《かこ》達であった。
いやもう一人|人《ひと》がいた。それは水に濡れた侍であった。
「あッ、あなたは一式様!」
「おっ、これは桔梗様!」
二十七
さてその翌日のことである。
一式小一郎は自分の家の、自分の部屋にこもっていた。襖を締め切り黙然と坐り、じっと膝の上を見詰めている。西向きの窓から夕陽が射し、随分部屋は熱いのに、そんなことには無感覚らしい。視線の向けられた膝の上に、銀製の小さな鍵がある。だが小一郎の表情から推せば、鍵について考えているのではなく、別のことを考えているらしい。
道場の方からポンポンと、竹刀の音が聞こえて来る。弟子達が稽古をしているのであろう。
お勝手の方からコチンコチンと、器物《うつわもの》のぶつかる[#「ぶつかる」に傍点]音がする。君江が洗い物をしているのであろう。
「気の毒なものだな、あの君江は」小一郎はふっと呟いた。
「俺は逢ったのだ、桔梗様に。本当の本当の恋人に。で、君江は正直に云えば、俺には不用の人間になった。邪魔な人間になったともいえる。……がそれはそれとして、全く昨夜は意外だったよ。南部に襲われ蝶を逃がし、大川の中へ転がり落ち、負け籤《くじ》ばっかり引いたかと思うと、今度は恋人の桔梗様と逢う。塞翁《さいおう》が馬っていうやつさな」微笑したいような気持ちになった。「それにさ随分変な人間に、一時に紹介されたものさ。隅田のご前という凄いような人物や、七人の異様な無頼漢《ならずもの》達に。……屋敷の構造も変なものであった。……悪人の住家《すみか》ではあるまいかな? あんな所へ桔梗様を置いて、はたして安全が保たれるかな?」これが小一郎には不安であった。だがしかしすぐに打ち消してしまった。「葵の紋服を召していた。では隅田のご前という人物は、高貴な身分に相違ない。それから桔梗様がその人を、叔父様叔父様と呼んでいた。とすると血筋を引いているのだろう。それでは安全と見てもいい」
小一郎の心へは次から次と、昨夜のことが思い出された。
船から上げられて介抱されたこと、濡れた衣裳を干して貰ったこと、別室で桔梗様と二人だけで、しばらく話を交わせたこと……
「昆虫館でのお約束を、反故にしたのではございません」こう桔梗様が云ったこと。「父は憂鬱になりました。『俺は一人で研究したい。娘よ、お前は江戸へ行け! 人間の世を見て来るがいい』こう云って妾を山から出し、人を付けて江戸へ送ってくれました」こう桔梗様が云ったこと。「その節父が申されました『一式氏は人物である。あのお方とお前との交際を、私は好んでお前へ許す、ついてはあの方を探し出し、この鍵を是非とも手渡しておくれ。雌雄二匹の永生の蝶を、一式氏が手に入れて、もしそれが子供を産んだ際には、この鍵が役に立つかも知れない』――で、お渡し致します」こう桔梗様が云ったこと。等、等、等を思い出した。「一式氏とやら、お暇があったら、時々お遊びにおいでなされ。があらかじめ申し上げて置く、拙者の屋敷の構造や、拙者の行動に関しては、絶対に世間へ洩らされぬように。うち見たところ貴殿には、一個任侠の大丈夫らしい。その中拙者の計画や、心持ちなどもお話し致す。時々遊びに参られるよう。それにどうやら姪の桔梗が、そなたを愛しておられるようで、遊びにおいでなさるがよい」――隅田のご前という人が、云ったことなども思い出した。
「時々どころか毎日でも行って、桔梗様と話をしたいものだ」小一郎は恋しくてならなかった。
「今日も、これから行ってやろう」
フラリと立つと大小を差した。だが何んとなく気が咎める。「気の毒だな、君江には」そこでこっそり[#「こっそり」に傍点]足音を盗み、玄関へかかると雪駄を穿き、「まるで間男でもするようだな」苦笑しながらも門を潜り、うまく君江にも目付からずに、夕陽の明るい町へ出た。
差しかかった所が大川端で、隅田の屋敷の方へ、急ぎ足に歩き出した。夕暮れ時の美しさ、大川の水が光っている。そこを荷舟が辷っている。対岸の白壁が燃えている。夕陽を受けているからである。鴎が群れて飛んでいる。舞い上がっては舞い下りる。翼が夕陽を刎ね返している。甍を越して煙りが見える。どうやら昼火事でもあるらしい。人々の罵る声がする。「火事だ火事だ! 景気がいいな!」間もなく煙りが消えてしまった。小火《ぼや》で済んだに相違ない。渡し船には人が一杯である。橋にも通る人が一杯である。物売りの声々が充ちている。江戸の夕暮れは活気がある。
「ひどく俺は幸福だよ」小一郎はこんなことを呟いた。「桔梗様にも愛されているし、君江どん[#「どん」に傍点]にも愛されている。色男の果報者というやつさ。……だが待てよ」と考え込んだ。「いかに何んでもこいつ[#「こいつ」に傍点]はいけない。桔梗様とは昨夜逢ったばかりだ。それだのにノコノコ今日行っては、あんまり俺がオッチョコチョイに見える。大人物らしい隅田のご前にも、裏を見られないものでもない。それにさ、幸福というものは、そう続け様に求めても、そう続け様に来るものではない。うかうか図に乗って逢いに行って、変な顔でもされた日には、とても助からないことになる。それにさ、幸福というものは、その幸福を抱きしめて、一人で味わうことによって、二倍の幸福を感ずるものだ。今日は行くのは止めにしよう。それより静かな所へ行き、楽しそうなことを考えよう」
そこで小一郎は横へ反《そ》れた。
来た所が品川の海岸で、この頃はすっかり日が暮れて、月が真《ま》ん円《まる》く空へかかった。もうほとんど人通りがない。宛《あて》なしにブラブラ歩いて行く。海では波も静からしい。青葉の匂いが馨《かんば》しい。
「幸福だな、幸福だ」
呟きながら彷徨《さまよ》って行く。
だがはたして小一郎の幸福は、幸福のままで済んだろうか? 鮫洲《さめす》の宿までかかった時――一挺の駕籠が江戸の方から、飛ぶように走ってやって来て、小一郎の傍を駈け抜けて、そうして夜の東海道を物怪《もののけ》のように走り去った時――そうしてその駕籠から何物か、地上へポンと落とされた時――そうしてそれを小一郎が、不思議に思って拾い上げた時、彼の幸福は覆えされてしまった。
拾い上げたのは簪《かんざし》であった。脚に紙片が巻き付けてある。それに文字が書かれてある。恐らく小指でも食い切ったのだろう。そうしてその血で書いたのだろう、生々しく赤くこう書かれてあった。
「悪者に誘拐されております。どなたかお助けくださいまし[#「くださいまし」は底本では「くだいまし」]」そうして「桔梗」と記してあった。
「ム――」と呻いた小一郎は、ブルッとばかりに顫えたが、「駕籠待てエーッ」と思わず大音に呼んだ。しかしその駕籠はついに馳せ去り、もちろん姿は見えなかった。気勢で呼んだまでである。
「これはこうしてはいられない!」
大小の鍔際を抱えるように、グッと握って胸へあてたが、片手で裾を端折ると、さながら疾風が渦巻くように、月夜に延びている街道を、走り下ったものである。
二十八
だがそれにしても桔梗様は、誰に誘拐《かどわか》されたのだろう? どこへ運ばれて行ったのだろう? 隅田のご前というような、あんな立派な人物によって、城廓めいた宏大な屋敷に、秘蔵されていた桔梗様
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