につけ、掛け声もかけず静まり返り、半円を作って寸から寸? ジリジリジリジリと寄せて来る。
「ちと手強い」と小一郎は、考えざるを得なかった。「木精《こだま》の森で切り合った、あの時の連中より強いらしい。じっと構え込んだ様子で解る。……ふふん例によって集五郎め、衆の真ん中に控えておる。こいつも今夜は懸命らしい。……さあてこれからどうしたものだ」考えがグルグル渦を巻く。桔梗様のことに気が付いた。と、カーッと血が湧いた。「桔梗様が江戸にいると云う。本当か知ら? いるなら是非とも逢いたいものだ。どうともしてお探ししたいものだ。……」にわかに一式小一郎は、その場から遁がれたいと思い出した。「永生の蝶などどうでもいい。南部一味にくれてもいい。蝶さえ渡したら文句はあるまい。こんな奴らとかかりあい、傷でも受けたらつまらない。トッ放そうかな、永生の蝶を」
 その間も敵は逼《せま》って来る。
 中段に付けた敵の刀が、月光を吸ってキラキラと、鋩先《きっさき》を上下へ動かすので、無数に螢が飛ぶようだ。
 次第に半円が縮まって来る。後へ後へと小一郎は、退かざるを得なかった。
「どうしたものだ、どうしたものだ!」小一郎は焦燥を覚えて来た。下段に引き付けた太刀構えが、だんだん上へ反ろうとする。
 と、その時小一郎の眼に、チラリと映ったものがある。敵勢の背後《うしろ》、家並の軒、月光の射さない一所に、じっとこっちを見詰めながら、スラリと立っている人影である。黒頭巾で顔を隠している。黒の振り袖を纒っている。裾が朦朧と暈《ぼ》けている。裾模様を着ているためらしい。まさしく女に相違ない。左の肩に生白く、懸けているのは何んだろう? 袋のようなものである。
 と、そこから声がした。
「お放しなさりませ、永生の蝶を」
 その女が小一郎へ云ったのである。「冷泉|華子《はなこ》でございます」
「ははあさてはこいつだな」咄嗟《とっさ》に小一郎は感付いた。「女方術師の蝦蟇《がま》夫人! ……放すかな、永生の蝶を!」
 その間もジリジリと敵の勢は、威嚇的に無言に逼って来る。そいつに連れて小一郎は、後へ後へ後へと下がる。
「これはいけない、崖縁だ!」小一郎は総身汗ばんだ。片足の踵が大川の崖へ、今や半分かかったのである。もう絶対に引くことは出来ない。一足引けば転落だ。
 またも女の声がした。「お放しなさりませ、永生の蝶を」
「うむ」と呻いた小一郎は、グッと懐中へ手を入れたが、その手を抜くと空高く、投げた! 何かを! 黒々と!
 蝶だ! クルクルと月光を縫い、舞い去ろうとする! 舞い去ろうとする! とたんに女が進み出た。ポンと投げたは袋様の物で、ベッタリ地上へへたばる[#「へたばる」に傍点]と、何んと生あるもののように、ムクムクと背中を持ち上げ[#「持ち上げ」に傍点]たではないか。続いて開いたは大きな口だ。と、そこからスラスラと、一筋の白布が濛気のように、空に向かって巻き上がったが、飛び去る蝶を追っかけた。
 何んという卑怯だ、その一刹那に、南部集五郎は声も掛けず、翻然と小一郎へ躍りかかった。
「こやつ!」と叫んで小一郎は、キワドク受けは受けたものの、足を辷らせザンブリと南無三! 南無三! 大川へ落ちた。

 シ――ンと岸上静かである。南部の一味立ち去ったらしい。
 もがいているのは小一郎で、今や溺れようとしているのであった。小一郎は水練には達していた。しかし全身|疲労《つか》れていた。転落する時腕を挫《くじ》いた。で、泳ぐことが出来ないのである。
「無念、死ぬのだ、もう駄目だ!」
 沈んでは浮かび、浮かんでは沈む。
 どこからも救いは来ないらしい。
 だがその時下流の方から、こんな掛け声が聞こえて来た。「エッサ、エッサ、エッサ、エッサ」
 つづいて現われたは小舟である。一種異様な軽舟で、七人の男女が乗り込んでいる。櫂の数は六挺である。七福神の乗っている宝舟、そんなような形の舟である。船首《へさき》に竜の彫刻《ほりもの》がある。その先から総《ふさ》が下がっている。月光に照らされて朦朧と見える。魔物のように速い速い。六人が櫂を漕いでいる。一人が梶を握っている。
 小一郎の側まで来た時であった。
「オッと止めたり、舟をお止め、人間一人アブアブと、土左衛門になろうとしているじゃアないか。お助けよ、お助けよ、何も功徳だ」こう云ったのは梶を握っていた女。
「合点」と一同答えた時には、舟はピタリと止まっていた。と、その舟から手が延びて、グーッと引き上げたは小一郎の体!
「さあ介抱は韋駄天だ」
「おいよ」と云うと一人の男は、小一郎の衣裳を絞ったが、
「やアいい男のお武家さんだ、弁天の姐《あね》ごが惚れなければいいが」
「何を云うんだよ途方もない」弁天と呼ばれた梶取りの女は、クックックッと笑ったが、「さあさあ漕いだり、お急ぎお急ぎ」エッサ、エッサ、エッサ、エッサと、舟、上流へ駛《はし》って行く。

 ちょうどこの頃のことである。大川の名が隅田川と変わり、向こうの岸は三囲社《みめぐりのやしろ》、こっちの岸は金竜山、その金竜山の一所に、川面へ突き出して造られた、一宇の宏大な屋敷があり、その屋敷の奥まった部屋で、しめやかに話している男女があった。
「そろそろ彼らの来る頃だが、まだ水門は開かないかな」こう呟いたは男である。百歳以上ではあるまいか? そう想われるほどの老人ではあるが、青年のように血色がよい。葵の紋服を纒っている。「それはそうとお前さんが、突然当家へ見えられた時には、俺もいささか驚きましたよ」
「相済みませんでございます」こう云いながら微笑したのは、昆虫館館主の娘であった。すなわち他ならぬ桔梗様であった。

        二十五

「いや全くお前さんが、突然ここへ見えた時には、私はいささか驚いたものだよ。がその代り久しぶりで、お前さんのお父さんの消息を知り、嬉しくもあれば懐しくもあった。だがどうもちょっと困ったな。娘のお前をさえ寄せ付けず、そんなにも酷《ひど》く憂鬱になり、部屋へ一人で閉じこもり、研究に浮身をやつしているとは。……ははあそうか、大事な大事な、永生の蝶とかいうものを、二匹ともなくしてしまったので、それでそんなに変わったというのか。学者というものは変なものだな。変梃《へんてこ》な蝶をなくしたことぐらいで、気が変わるとは解せないよ。もっとも研究材料で、大事なものには相違あるまいがな……まあまあそれはそれとして、お前さんと逢えたのは有難い。遠慮はいらない遠慮はいらない。ここを自分の家だと思って、気随気儘にくらすがいい。何んと云っても私とお前とは、叔父さん姪さんの仲だからな。綺麗な姪さんがやって来たのだ。これまでは陰気過ぎたこの家も、これからは陽気になるだろう。……お前さんにとってもいいことだよ、三浦三崎の山の中などに、そんな虫だの獣だの、片輪者などと住んでいるよりはな。江戸へ来た方がずっといい。……と云って茫然《ぼんやり》遊んでいたでは、お前さんにしてからが退屈だろう。そこで何かを習うがいい。と云ってお父さんはあれほどの学者、したがってお前さんも学者だろう。だから、恐らく学問などは習う必要はないだろう。ひとつ反対《あべこべ》に弟子でも取って、お前さんの方で教授するかな。……いや待ったり他のことがある、生花や茶の湯を習うがいい。山の中にいたお前さんのことだ、そういうことは知らないだろう。茶の湯、生花、これからお習い! え、何んだって、知っているって? 痩せ我慢はいけない、気取ってはいけない。山家育ちのお前さんなどが――と云っても大変別嬪だが、何んの茶の湯や生花などを、知っていることがあるものか。え、本当に知っているって? ふうん、そうか、それは感心。そうかも知れない。そうかも知れない、打ち見たところ上品で、女一通りの芸や作法は、どうやら心得ているように見える。何さ何さ一通りどころか、十二分に心得ているらしい。とするとどうも困ったな。何を習ったらいいだろう? おおそうだ、いいものがある、お習いお習い、泥棒をね」
 葵ご紋の威厳のある武士《さむらい》は、能弁に愉快そうに喋舌って来たが、とうとうこんなことを云い出してしまった。泥棒を習えというのである。
 これにはさすがの桔梗様も、驚いたかというに驚かなかった。
 したたるような美しい眼と、恍惚《うっとり》するほどの美しい声とで、負けずに愉快そうに云ったものである。
「叔父様、結構でございますこと、習いましょうねえ、泥棒を」
「え?」とこれには叔父の方が――葵ご紋の武士《さむらい》の方が、あべこべに仰天したらしい。「本当かな、習う気かな、泥棒という商売を?」
「はいはい妾習いますとも、大喜びで習いますとも。あの、必要がございますので」桔梗様は真面目に云ったものである。
「これはこれは」と葵ご紋の武士は、いよいよ胆を潰したらしい。「度胸がいいの。偉い度胸だ。どんな必要かな? 云ってごらん?」
 すると桔梗様は一層真面目に、それでいて途方もなく愉快そうに、ズケズケこんなことを云い出した。
「お探ししたい人がございますの、綺麗な綺麗なお侍さんなの。少し皮肉ではございますが、そこがまた大変よいところで、可愛らしいのでございますの。……云い交わした人なのでございます、恋し合った方なのでございます。……たしか只今は江戸|住居《ずまい》で。どうともしてお探しし、お逢いしたいのでございますの。……ようございますわね、泥棒は。どこへでも勝手に忍び込め、どんな方とも逢うことが出来、ほんとに何んて結構なんでしょう。でもねえ叔父様」と甘えた声で、「よい先生がございましょうか、上手に泥棒をお教えになる」
「待ったり」と叔父様は――葵ご紋の武士は、眼を円くすると手を振った。「私は知らぬよ、こんな娘は! 驚きましたね、二の句も継げない。どうも当世の娘っ子は、油断も隙も出来ないの。叔父さんを前にちゃアンと据えて、恋人があるというのだから。とんだ姪さんを持ったものさ。私は謝罪《あや》まる、私は謝罪まる。……そうは云っても面白いの。やっぱり血統は争われない、反骨稜々侠気充満、徳川宗家に盾突いて、日本は狭いと云うところから、海を渡って異国へ行った、我々のご先祖の血液が、お前のお父さんにもこの私にも、お前さんにも通っているらしい。……うむ!」と云うとどうしたものか、葵ご紋の威厳のある武士は、にわかに不思議な表情をしたが、すぐに磊落《らいらく》に笑い出した。「先生かな、泥棒さんの。いるともいるとも、ここにいるよ」云うと一緒に手を延ばし、手首を曲げると人差し指を延ばし、ポンと自分を指さした。それから云ったものである。
「大泥棒! 異国をさえも盗む! そういう泥棒の先生がな」
 ――でまたそこで磊落に笑った。

        二十六

 磊落に笑った大きな声に、吃驚《びっくり》したというように、床に活けてあった牡丹の花が、一|片《ひら》ポロリと床の上へ零れた。
 顔輝《がんき》筆とも思われる、蝦蟇仙人と鉄拐仙人、二人を描いた対幅が、床一杯に掛けられてある。それが名筆であるだけに、三十畳ぐらいは敷けるであろう。そのくらい広い部屋の中に、一種云われぬ蒼古な妖気が、陰々として漂っている。
 実際それは名筆であった。二人とも活けるがようであった。二人ながら乱髪である。二人ながら跣足《はだし》である。そうして二人ながら襤褸《ぼろ》を纒い、二人ながら岩に腰かけている。ただし、一方蝦蟇仙人は、左手に躑躅《つつじ》の花を持ち、右肩に蝦蟇を背負っている。白味を帯びた巨大な蝦蟇で、まるで大きな袋のようである。パックリ開いた醜悪の口から、布のように見える白気を吐き、飛び出した眼を輝かせている。一方鉄拐仙人は、腰に大きな瓢《ひさご》を付け、両足の間に杖を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]み、左手で奇形な印を結び、すぼめた[#「すぼめた」に傍点]口からこれは黒気を、一筋空へ吐き出している。そうして黒気の行き止まりの辺に、同じ姿の鉄拐仙人が、豆のように小さく走って
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