がやって来て春が去り、江戸の町々は初夏となった。
 ここは深川上の橋附近の、中洲の渡《わた》しに程近い地点で、そこにささやかな町道場があった。道場の主人は一式小一郎で、君江と二人で住んでいる。一人甚吉という下男がいる。内弟子もない質素な住居――と云いたいがそうでもない、いろいろの人間が集まって来た。浪人、遊び人、小旗本の次男、仲のよい田安家の友人達、安御家人《やすごけにん》やごろん[#「ごろん」に傍点]棒、剣術好きの町家の番頭、それから勇みの鳶の者。
 鐘巻《かねまき》流剣道指南。
 門に看板が上がっている。
 時々竹刀の音もするが、それより無駄話や高笑いの方が、一層繁く聞こえて来た。
 剣道指南所というよりも、倶楽部と云った方がよさそうである。
「父親から仕送りが来るんだよ、束脩《そくしゅう》や月謝なんか宛《あて》にするものか」
 これが小一郎の心持ちであった。
 父清左衛門云って曰く、「どうせお前は次男の身分だ。養子に行くか別家するか、どうかしなければならないのだが、どっちもお前には適しないらしい。戦国の世にでも産まれたら、小城の主ぐらいにはなれたかもしれない。ちょっと当世には向か
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