な、谿へ落ちて。もしそうなら気の毒なものだ」しかし小一郎は諦めることにした。「考えまいよ、そういうことは。現在の幸福に浸ろうよ」
 大池の岸へ出た小一郎は、枯草を敷いて眺めやった。別に変わった池でもない。熔岩だろう黒い岩が、グルリと池を取り巻いている。池の形は楕円形で、いささか人工は加えられているが、天然に出来たものらしい。黒いまでに蒼い水の色、早春の水としては当然である。漣《さざなみ》一つ立っていない。すなわち風が吹かないからだ。ちょうど鞣《なめ》し革でも敷いたようである。一所箔のように輝いている。日光の加減に相違ない。水鳥が幾羽か浮かんでいる。水草がのびのびと流れている。じっと見ていると心が和み、つい恍惚《うっとり》となってしまう。
 池の周囲に点々と、沢山の家が立っている。それとて変わった造りではない。小さな木造の日本家屋である。だがいずれも平屋建てで、障子が白々と陽に光っている。ここの住民は花好きと見え、家々の前庭には花壇があり、早春の花が咲いている。
 池と家とを守護《まも》るようにして、空を摩すような大森林が、錆びた鉄のような頑丈な幹と、黒曜石のような黒い葉とで、周囲をグル
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