ので?」
「そうもハッキリとは云っているんじゃアないよ。裏切り者になら盗むことが出来る、ただこんなように云っているまでさ」
「裏切り者などおりますものか」
「ほんとにほんとにそうありたいねえ」
 ここで二人は黙ってしまった。吉次は足もとを見詰めている。泉を湛えた岩壺がある。人間一人がはいれるくらいの、円い形の岩壺である。湛えられた水の美しさ! 底まで透き通らなければならない筈だ。ところが底は真っ暗である。非常に深いに相違ない。水面に空が映っている。その空を小鳥が飛んだのだろう、水面に小鳥の影が射した。が、一瞬間に消えてしまった。吉次の視線が落ちている! その岩壺の水面へ!
 と、大岩の背後《うしろ》から、呼びかける声が聞こえて来た。
「桔梗や、桔梗や、桔梗はいるかな?」
「はいお父様、ここにおります」
 岩を巡って現われたのは、一種異様な老人であった。纏《まと》っているのは胴服《どうふく》であったが、決して唐風のものではなく、どっちかというと和蘭陀《オランダ》風で、襟にも袖にも刺繍がある。色目は黒で地質は羅紗、裾にも刺繍が施してある。その裾を洩れて見えるのは、同じく和蘭陀型の靴である。
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