いた。
 両六波羅探題の周章狼狽は、外目《よそめ》にも笑止の程であって、隅田《すみた》通治、高橋宗康、この両将に五千の兵を付け、急遽討伐に向わせた。
 そこで正成は二千の精兵を、まず三つの隊に分かち、天王寺の付近にかくし伏せ、外に弱卒三百をして、橋を守らせ、機会を待った。
 隅田、高橋はその弱卒を見て、大いに笑い突撃《とつげき》した。三百の卒は一散に逃げた。
 それを追って、隅田、高橋の勢が、天王寺付近にさしかかった時、伏兵が三方からあらわれた。
 隅田、高橋の勢の狼狽すまいことか!
「詭計ぞ!」とばかり退き逃げたが、正成の勢に追い討たれ、或いは川に溺《おぼ》れて死に、全軍ことごとく意気沮喪し、二将は京都へ引あげた。
 そこで正成は悠々と、天王寺の地へ陣を敷き、京都へ攻めのぼるべき気勢を示した。
 と、その時二度目の討手として、宇都宮治部大輔公綱が、向い来るという取沙汰が聞えて来た。

       *

 七月××日の夜のことであった。正成の天王寺の陣営で、河内の国の住人和田孫三郎は、額の汗をふきふき、正成へ情勢を報知《しら》せていた。
「……そのような事情にござりまして、宇都宮公綱
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