たま》わった。何んたる一族の光栄であろう。尽忠の誠心を披瀝して、皇恩に御酬い致さねばならぬ。こう、ひたむきに決心した。功名も望まず栄誉も願わず、遠祖《えんそ》橘諸兄公《たちばなのもろえこう》以来の、忠心義胆が血となり涙となって、皇家へ御奉公仕ろうと、そう決心したのであった。
 その御奉公の最初の現われが、赤坂築城であり、義兵の旗あげであり、そうして今度の籠城戦であった。
 詭計《きけい》のためとは云いながら、その城が燃えているのである。
(ナーニ)
 と正成はすぐに思った。
(そうだ一旦《いったん》は敵に渡す。が、やがて奪回《とりかえ》して見せる)

       *

 大塔宮様が熊野方面に落ち、楠正成《くすのきまさしげ》が河内摂津《かわちせっつ》の間に、隠顕出没《いんけんしゅつぼつ》して再挙を計るべく、赤坂の城をこうして開いたのは、元弘元年十月の、二十一日のことであった。
 が、約半年の月日が経って、翌年の四月になった時、正成はふたたび活動をはじめ、わずか五百の兵を以て、まず赤坂の城を攻め、城将湯浅定仏を降し、その兵を合わせて二千となし、住吉天王寺辺へ打って出で、渡辺橋の南に陣を敷
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