千余騎のわが軍に向うというは、先般の負戦に負腹たて、無二無三に仕掛くるものと存じまする。謂わば[#「謂わば」は底本では「謂はば」]暴虎馮河《ぼうこひょうが》の勇、何程のことがござりましょう。それに反しましてお味方の勢は、勝に乗りまして意気軒昂、然らば今夜|逆寄《さかよ》せ仕り、一挙に追い散らしあそばすこそ、肝要かと愚考いたされまする」。「一理はある」と、正成は云った。「が、それでは味方も損ずるよ」
「…………」
「合戦《かっせん》の勝敗と申すもの、必ずしも大勢小勢にはよらぬ。ただただ兵の志が、一になるかならぬかにある。……公綱が行動を案ずるに、先般関東方我に破られ、面目を失して帰りし後、小勢にて向い来し志、生きて帰らぬ覚悟であろう。それに公綱は弓矢とっては、坂東《ばんどう》一と称さるる人物。従う紀清《きせい》両党の兵は、宇都宮累世養うところのもの、戦場に於《おい》て命を棄つること、塵埃《じんあい》の如く思いおる輩《ともがら》じゃ。その兵七百余騎志を合わせ、決死を以て当手《とうて》に向わば[#「向わば」は底本では「向はば」]、当手の兵大半は討たれるであろう。関東討伐、朝権恢復、この戦《たたかい》を以て決しはせぬ。行末遥の戦に多からぬ味方を失うては、取り返しならぬこととなろう。……正成、今宵陣を引く所存じゃ」
「ご退陣?」と、正遠も、孫三郎も、驚いたように眼を見張った。「一戦もお交しあそばされずに?」
「一旦|退《の》いてまた乗っ取るのじゃ」
「…………」
「味方を傷つけず敵も傷つけぬためにな」
「…………」
「公綱に恩を施すともいえる」
「…………」
「宇都宮公綱は律義者じゃ。義に厚く情に脆《もろ》い。坂東武者の典型でもあろうよ。ただ不幸にして順逆《じゅんぎゃく》の道を誤り、今こそ朝家に弓引いておるが、一旦の恩に志を翻《ひるが》えし、皇家無二の忠臣として、尽瘁《じんすい》せぬとも限られぬ。……正成が為んよう見て居るがよいぞ」
暁近くなった時、正成の本陣をはじめとし、和田正遠、湯浅定仏、その他楠家一党の陣は、ひそかに粛々と伍をととのえ天王寺から引きあげた。
*
一方宇都宮治部大輔公綱は、東の空の白むと見るや、七百余騎を引率し、天王寺さして驀地《まっしぐら》に押し寄せ、古宇都《こうづ》の民家へ火をかけて、鬨《とき》の声をドッとあげた。
京都あまりに無勢とあって、両六波羅探題北條時益、同じく北條仲時によって、わざわざ関東から呼びよせられ、京都守護をまかせられた、武功名誉の公綱であった。隅田、高橋の両武将が、もろくも正成《まさしげ》のために渡辺の橋で破られ、関東の武威《ぶい》を失墜《しっつい》するや「大軍すでに利を失いました後、小勢を以て向いますること、如何《いかが》あらんかとは存じまするが、関東を罷《まか》り出でまする際、このようなお大事に巡り合い、命を軽ういたすを以て、念願といたしおりましたる私、駆《か》け向いまするでござりましょう。今の場合を観じまするに、戦いの勝敗そのものを、云為《うんい》いたす時にてはござりませぬ。何はあれ一人にても駈け向い、落ちました関東の武威を揚げますこと、肝要《かんよう》のことかと存ぜられまする」と、こう言上《ごんじょう》して向って来た公綱であった。
決死の程が想像されよう。
さて、然うドッと鬨《とき》をあげた。
然るに答える者はなく、駈け出して来る兵もなく、楠氏《なんし》の陣営には、焚《た》きすてられた篝《かがり》が、余燼《よじん》を上げているばかりであった。
「正成一流のたばかり[#「たばかり」に傍点]でもあろうぞ。油断《ゆだん》して裏掻《うらか》かるるな」
と、公綱は馬上大音に叫び、更に天王寺の東西の口より、三度までも駈入り駈入ったが、敵の姿は一人も見られなかった。
夜がまったく明け放れた。
事実|敵影《てきえい》はないのであった。
多少の疑惑はあったものの、戦わざるに勝った心地がして、公綱としては歓喜|類《たぐい》なく、正成の陣営のその後へ、自身|直《ただ》ちに陣を敷き、やがて京都へ早馬《はやうま》を立て勝利の旨を南六波羅へ申しやった。
しかるに五六日経った頃から、奇怪なことが夜々に起った。
天王寺を遠く囲繞《いにょう》して、秋篠《あきしの》の郷や外山《とやま》の里や、生駒の嶽や志城津《しぎつ》の浜や、住吉や難波の浦々に――即ち大和、河内、紀伊の、山々谷々浦々に、篝《かがり》や松明がおびただしく焚かれ、今にも数千数万の軍勢が、寄せ来るかとばかり見えることであった。
「一旦陣は引いたが正成め、新手の大軍を猟《か》り催し、押し寄せ来る手段と見える。誠《まこと》の戦《たたかい》一度もせず、残念に思っていたところ、押し寄せ来るこそ却って幸い、迎え撃《う》って雌雄《
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