しゆう》を決しようぞ。……やア汝等《おのれら》寸刻といえども、油断をするな、用意怠るな!」
 こう部下に命を伝え、自己も鎧の上帯を解《と》かず、部下にも帯を解かしめず、馬の鞍《くら》をも休めようとはせず、まして夜な夜なを眠らず眠らせず、敵の押し寄せ来るを待ちかまえた。
 然るにその後も依然として、遠篝《とおかがり》は山々谷々に、また浦々に燃えつづいたが、寄せて来ようとはしなかった。
 大将公綱を初めとし、紀清両党の郎党たちも、追々|惰気《だき》を催して来、しかも思い切って心を許し、眠に入ることが出来なかったので、身心次第に疲労《つか》れ衰弱《おとろ》えて、戦意|頓《とみ》に失われ、退陣したいものと思うようになった。

       四

 天王寺の陣を引いた正成は、数里はなれた櫨子原《しどみばら》に、幔幕《まんまく》ばかりの陣を張り、悠々と機をうかがっていた。
 或夜|正遠《まさとお》と定仏《じょうぶつ》とをつれ、陣々をひそかに見回りながら小高い丘の頂まで来た。
 はるかの彼方に天王寺があって、その辺に敷いてある公綱《きんつな》の陣から、立ちのぼる篝の火が空に映じ、ほの明るさを見せていたが、いつもの夜よりも火光は弱く、衰えの様が感じられた。
「正遠」
 と、正成は愉快そうに云った。
「明日は天王寺へ帰ることが出来るぞ」
「は?」
 と、正遠はいぶかしそうに、
「では明日わが君には、天王寺をお討ちあそばすので?」
「いや公綱とは戦いはせぬよ。これは以前から決めていることじゃ」
「では如何して天王寺へ、明日お帰りあそばしますか?」
「公綱明朝陣を引き、京都へ帰って行くからじゃ」
「ははあ、公綱退陣しましょうか?」
「あの篝火の衰え様では、明日退陣と見てよかろう」
「…………」
「一戦も交えず正成をして、退かせましてござりますと、これを功にして京に帰らば、公綱の面目は立つからのう」
「これは御意《ぎょい》にござります」
「公綱としてはわしを追い討ち、この陣を破りたく思ってはいようが、それにしては兵が少なすぎる。といって天王寺にとどまっているには、夜な夜な燃える数千の篝が、どうにも気になっておちついて居られぬ。で、結局、帰って行くのじゃ」
「さよう予《あらかじ》めご計画あそばして、天王寺をご退陣あそばしましたので?」
「そうだ」と正成は頷いた。「で、わしは百姓や漁夫や、樵夫《やまがつ》などに命を含め、山々谷々浦々に、あのように篝を焚かせたのじゃよ。……定仏定仏」と湯浅定仏を呼んだ。
「わしは赤坂を落ちる時にも、必ず後日奪回いたすと、こう決心して落ちたのじゃよ」
「は」
 と云ったが、湯浅定仏は、何んとない苦笑を頬に浮かべた。
「まこと君にはその後間もなく、赤坂城を復されましてござりまする」
「わしが火をかけて脱け出した城を、其方よく修理してくれたのう」
「…………」
 定仏は黙ってまた苦笑した。
 それに相違ないからであった。
 正成が赤坂城を捨てて出た後へ、六波羅の命で入城し、城を修理して籠もったのは、たしかに湯浅定仏だったのであった。
 が、その定仏は正成に攻められ、他愛なく城は乗っ取られ、本人はこのように降将として、正成に仕えているのであった。
 苦笑せざるを得ないではないか。
「過去を探り現在を識り、未来を察して世を渡らば、人間間違いはないものじゃ」こう正成は訓《おし》えるように云った。
「武人にとっては合戦こそは、立派な世渡りの術だからのう。未来を察してかからねばならぬよ。……明日天王寺へ帰ったなら、何を置いてもお寺へ参り、未来記を拝見するつもりじゃ」
 この夜も山々谷々に、そうして津々浦々一円に、正成の焚かせている篝火が、妖しく凄く燃えていた。

       五

 正成の予言は的中し、翌朝公綱は陣を撤し、京都をさして帰って行き、代《かわ》って正成が天王寺へ這入った。
 元弘二年八月三日、この日はよく晴れた秋日和《あきびより》で、松林では鳩が啼き、天王寺の塔の甍《いらか》には、陽が銀箔のようにあたっていた。
 白鞍《しろくら》置いた馬、白覆輪《しろふくりん》の太刀、それに鎧一領を副《そ》え、徒者数人に曳き持たせ、正成は天王寺へ参詣し、大般若経《だいはんにゃきょう》転読《てんどく》の布施として献じ、髯の白い老いた長老に会い、正成不肖の身をもって、一大事思い立ちたる事由を審《つぶ》さに述べたるのち、虔《つつ》ましく居ずまいを正し、「承わりますれば、上宮太子|厩戸皇子《うまやどのおうじ》様、百王治天の安危を勘《かんが》え、日本一州の未来記を認《したた》め、この寺院に秘蔵あそばさるるとか。もし拝見苦しからずば、現代に関わる箇所だけなりとも、是非とも拝見仕りたく、如何のものにござりましょうや?」
 すると長老は深く頷いて、
「万代
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