いて居りました、深編笠で顔を隠し其上俯向いて居りますので顔は少しも解りませんが強健な姿から推察ると偉貌の持主に相違ありません。黒紋附に細身の大小、緞子《どんす》の袴を穿いた様子は何《ど》うして中々立派なものです。千石以上の旗本の先ず御隠居という所です。が夫れにしてはお供が無い。
 慶安四年の卯月の陽がカンカン当たっている真昼の事で自由に身動きが出来ないほど浅草奥山の盛場は人で立て込んで居りました。其侍は忙かず急がず其中を歩いて行くのでした。
 其時行手から人波を分けて侍が三人遣って参りましたが打見た所御家人か小禄の旗本と云ったようながさつ[#「がさつ」に傍点]な人品でございます。やがて人波に揉まれながら双方の侍は行き違いましたが、どうしたものか不図其時、編笠を冠った其侍がその編笠へ左手《ゆんで》を掛けヒョイと空の方へ向きました。と、其空に物化でもいて彼に逼るのを払うかのように左手をバラバラと振ったものです。そして殆ど夫《そ》れと同時に右手《めて》が突然胸元まで上がり、何かピカリと閃めいたかと思うと一刹那掛声が掛かりました。
「えい」でも無ければ「ヤッ」でも無い。それは、「カーッ」という
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