様な不敵の人間、まして術者とござりますれば、不礼を咎めて罪するよりも、恩を掛けてお味方に付け……」
「何かの役に立てろと云うか?」
「仰せの通りにござりまする」
「利休、今日より茶を止めい!」
「え?」と驚いて眼を見張る。
 すると秀吉はカラカラと笑い、
「何も驚くことは無いわ。器量ある男と云った迄じゃ。茶を止めて采配を握ったなら、如水ぐらいには成れようも知れぬ。よいよい其方の言葉に従い、其奴捕えて幕下として細作なんどに使うとしょうぞ」
 斯うして翌日から諸方に向かって不敵の術者捜索の為めの多勢の人数が配られた。そして其結果見付け出されたものこそ、この物語の主人公、赤格子と後年字名を呼ばれた梶原九郎右衛門教之であった。
 此時、九郎右衛門は十五歳、産れは九州天草島、郡領房雪の末子であった。
 豊公歿後、仕を辞し、徳川氏の代になってからは、彼は陸上に望を断ち、海に向かって発展した。即ち博多の大富豪島井宗室の大参謀となり、朝鮮、呂宋、暹羅、安南に、御朱印船の長として、貿易事業を進めたのである。
 彼は復《また》居合の名人であった。それに就いて一つの逸話がある。

「一人の老いた侍が静かに歩いて居りました、深編笠で顔を隠し其上俯向いて居りますので顔は少しも解りませんが強健な姿から推察ると偉貌の持主に相違ありません。黒紋附に細身の大小、緞子《どんす》の袴を穿いた様子は何《ど》うして中々立派なものです。千石以上の旗本の先ず御隠居という所です。が夫れにしてはお供が無い。
 慶安四年の卯月の陽がカンカン当たっている真昼の事で自由に身動きが出来ないほど浅草奥山の盛場は人で立て込んで居りました。其侍は忙かず急がず其中を歩いて行くのでした。
 其時行手から人波を分けて侍が三人遣って参りましたが打見た所御家人か小禄の旗本と云ったようながさつ[#「がさつ」に傍点]な人品でございます。やがて人波に揉まれながら双方の侍は行き違いましたが、どうしたものか不図其時、編笠を冠った其侍がその編笠へ左手《ゆんで》を掛けヒョイと空の方へ向きました。と、其空に物化でもいて彼に逼るのを払うかのように左手をバラバラと振ったものです。そして殆ど夫《そ》れと同時に右手《めて》が突然胸元まで上がり、何かピカリと閃めいたかと思うと一刹那掛声が掛かりました。
「えい」でも無ければ「ヤッ」でも無い。それは、「カーッ」という
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