掛声です。
 その掛声の鋭いことは、歩いていた人達が立ち止まった程です。一体「か」という此音は喉的破裂の音と云って舌の後部を軟口蓋に接し一気に破裂させる鋭い音ですが不思議のことには剣道の方では殆ど此音を用いません。いずれ理由はあるのでしょう。
 ところが雑踏の浅草境内の加之《しかも》真昼間往来中でこの掛声が掛かったのです。そうして何んと不思議な事には、いまし方迄歩いていた編笠を冠った其侍の姿が、見えなくなったではありませんか。つまり掛声が掛かると一緒に姿が見えなくなったのです。そうして胆の潰れることには朱に染まった三人の武士が斃れているではありませんか。三人ながら只一刀に脳天を割られているのでした。
 この白昼の兇変は瞬間に江戸中に伝わりまして大変な評判になりました。その侍こそ怪いというので南北町奉行配下の与力や、同心岡引目明まで、揃って心を一つにして其詮策に取り掛かかりましたが一向手掛かりもありません。
 旗本や御家人や勤番侍などへ夫れと無く探り入れても見ましたが、香ばしいこともありません。かいくれ目星が付かない中にどんどん日数が経って行って一月余りも経ちました。其の時、全然同じ一手段で夫れも立派な旗本が一人、芝の御霊屋《おたまや》の華表《とりい》側で切り仆されたではありませんか。
 そうして矢張り切手の侍は何処へ行ったものか姿は見えず、「カーッ」と掛けた掛声ばかりが、往来の人の耳の底に残って居るばかりでありました。
 江戸の治安を司る町奉行の驚きは何《ど》んなだったでしょう。以前にも優して厳重に兇徒の行方を探がされたことは云う迄も無いことで厶《ござい》ます。併し依然として行方が知れぬ。そして遂々永久に行方が知れなかったので厶ます。とは云え世人の噂に依れば、これこそ赤格子九郎右衛門が、怨みある敵を討ち果たしたので、その神速の行動は即ち忍術の奥儀でありその精妙の剣の業は即ち居合の秘術であると。
 噂は事実でございました。九郎右衛門の死後その手記に、その事実が記されてあったそうです。」[#「そうです。」」は底本では「そうです。」]

     三

 以上は「緑林黒白」中の、逸話の一節を書換たものであるが此時は既に九郎右衛門は七十一歳になっていたそうで、其の老体を持ちながらそれ程の働きの出来た所を見ると、確かに居合は名人であったらしい。
 偖《さて》、それほどの剣技を
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