学の学究であったが、柳生流でも名手であった。で、背後から名の知れない武士に、俄然と切ってかかられた時にも、身を翻えして、刃を遁れた。
「誰だ!」と、まずもって声を掛けた。
「瞞《だま》し討ちとは卑怯な奴だ! 怨みがあるなら尋常に宣《なの》って、真っ正面からかかって来い! 身分を云え! 名を宣れ! ……拙者の名は宮川茅野雄という、他人に怨みを受けるような、曲事《きょくじ》をしたような覚えはない! 思うにおおかた人違いであろう。……それとも、拙者に怨みがあるか※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
 こう云いながら宮川茅野雄は、刀の鍔際をしっかりと抑えて、五寸あまりも鞘ぐるみ抜いて、右手で柄もとを握りしめて、身を斜めにして右足を出して、いつでも抜き打ちの出来るように、居合腰をして首を延ばしたが、じっと前の方を隙《す》かして見た。
 漲っている蒼白い月の光を浴びて、宮川茅野雄から五間あまりの彼方《かなた》に、肥えた長身の三十五六歳の武士が、抜き身をダラリと引っ下げた姿で、こっちを見ながら立っていたが、髪は大束《おおたぶさ》の総髪であった。
 と、その武士は落ち着き払った態度で、ゆるゆると茅野雄へ近寄って来たが、
「宮川茅野雄殿と仰せられるか、はじめてお名前を承《うけたま》わってござる。拙者は醍醐《だいご》弦四郎と申して、身の上の儀はまずまず浪人、ただしいくら[#「いくら」に傍点]かは違いますがな。……いかにも貴殿の仰せられる通りに、拙者、貴殿に怨みはござらぬ。と云え貴殿の仰せられるように、人違いで切ってかかったのでもござらぬ。思うところあって切り付けたのでござる。と云うのは貴殿の運命と、――巫女から買い取られた運命と、拙者の運命とが似ているからでござる」
 こう云うとクックッと含み笑いをしたが、
「実は拙者も同じ巫女から、運命を買ったのでございますよ」
「ほほう」とそれを聞くと宮川茅野雄は、化《ば》かされたような気持ちがしたが、
「貴殿の買われた運命と、拙者の買い取った運命とが、似ているというようなそのようなことが、殺生沙汰を招きましょうかな?」
「運命を占った女巫女の、素性をご存知ない貴殿としては、そういう疑念を挿まれるのは、当然至極と存ぜられますよ。またあの巫女の占ったところの、『何か』得られるというその『何か』の、何であるかをご存知なければ、そういう疑念も挿まれましょうよ」
「それでは貴殿におかれましては、巫女の素性をご存知なので?」
「さよう、拙者は存じております」
「で、その『何か』もご存知なので?」
「さよう、拙者は存じております。と云うよりもこれはこう云った方がよろしい。――その『何か』を手に入れようとして、五年|以来《このかた》探しておりましたとな」
「が、それにしても何の理由から、拙者を討とうとなされましたので?」
「競争相手を亡ぼしたかったからで」
「ほほう」とそれを聞くと宮川茅野雄は、また化かされたような気持がしたが、
「いやいや拙者におきましては、あの巫女の占った運命などは、決して信じはいたしませぬよ。したがって『何か』を手に入れようなどと、貴殿と競争などはいたしませぬよ。……と、このように申しましても、どうでも貴殿におかれましては、拙者を討ってとるお意《つもり》なので?」
 すると醍醐弦四郎という武士は、抜き身をソロリと鞘へ納めたが、
「競争をなさらないと仰せられるならば、何の拙者が恩怨もない貴殿へ、敵対などをいたしましょう。……しかしあらかじめ申し上げて置きます、あの巫女が占いをいたした以上は、貴殿にはほとんど間違いなく、その『何か』を手に入れようとして、努力をなさるようになりましょうとな。と、拙者とは必然的に、競争をすることになりましょう。もしもそのようになった際には、いつも貴殿の生命を巡って、拙者の刃のあるということを、覚悟をなされておいでなさるがよろしい。……とにかく今夜はお別れをいたす。ご免」と云うと元来た方へ、醍醐弦四郎は歩き出した。
 茅野雄は後を見送ったが首を傾《かし》げざるを得なかった。
(ああいうように云われて見れば、俺といえども巫女の占いを、何となく信じて見たくなった。醍醐弦四郎という武士が出て、俺の好奇心へ油を注いで、火を焚きつけたというものだ。……だが「何か」とは何だろう? 要するに今の場合では、何が何だか解らない――と云うことになっているな。……山岳へおいでなさりませ、何か得られるでござりましょうと、こうあの巫女は占ってくれたが、日本の国には山が多い。どこの山へ行けというのだろう? そこまで占ってくれなかったのだから、山へ行こうにも行きようがない)
 で、茅野雄は歩き出した。
 と、松倉屋の邸の中から、荒々しく怒鳴る老人の声が、門扉を通して聞こえてきた。

怒号の意味は?

「……
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