生死卍巴
国枝史郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)後夜《ごや》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)松平|碩寿翁《せきじゅおう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
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占われたる運命は?
「お侍様え、お買いなすって。どうぞあなた様のご運命を」
こういう女の声のしたのは享保十五年六月中旬の、後夜《ごや》を過ごした頃であった。月が中空に輝いていたので、傍らに立っている旗本屋敷の、家根の甍《いらか》が光って見えた。土塀を食《は》み出して夕顔の花が、それこそ女の顔のように、白くぽっかりと浮いて見えるのが、凄艶の趣きを充分に添えた。
その夕顔の花の下に立って、そう美女が侍を呼びかけたのであった。
「わしの運命を買えというのか、面白いことを申す女だ」
青木昆陽の門下であって、三年あまり長崎へ行って、蘭人について蘭学を学んだ二十五歳の若侍の、宮川茅野雄《みやかわちのお》は行きかかった足を、後《あと》へ返しながら女へ云った。
「買えと云うなら買ってもよいが、運命などというものはあるものかな?」
云い云い女をつくづくと見た。女は二十二三らしい。身長《たけ》が高く肥えていて、面長の顔をしているようであった。どこか巫女《みこ》めいたところがある。
「はいはい運命はございますとも。定まっているのでございますよ。あなた様にはあなた様の運命が。私には私の運命が」
「さようか、さようか、そうかもしれない。もっともわし[#「わし」に傍点]は信じないが。……ところで運命は、なんぼ[#「なんぼ」に傍点]するな?」
「それではお買いくださいますので。ありがたいしあわせに存じます。はいはい、あなた様の運命の値段は、あなた様次第でございます。一両の運命もございますれば、十両の運命もございます」
「なるほど」と茅野雄は苦笑したが、
「つまりは易料や観相料と、さして変わりはないようだの」
「はいはいさようでございます」と女の声も笑っている。
「それではなるだけ安いのにしよう。一分ぐらいの運命を買いたい」
「かしこまりましてございます」
こう云うと女は眼をつむって、空を仰ぐような格好をしたが、
「山岳へおいでなさりませ。何か得られるでござりましょう。都《みやこ》へお帰りなさいませ。何か得られるでござりましょう。それが幸福か不幸かは、申し上げることは出来ません」
――で、女は行ってしまった。
(浮世は全く世智辛《せちがら》くなった。何でもない普通の占いをするのに、運命をお買いなさいませなどと、さも物々しく呼び止めて、度胆を抜いて金を巻き上げる。男でもあろうことか若い女だ。昼でもあろうことか更けた夜だ)
茅野雄は、苦笑を笑いつづけながら、下谷の方へ歩き出した。そっちに屋敷があるからである。
ここは小石川の一画で、大名屋敷や旗本屋敷などが、整然として並んでいて、人の通りが極めて少ない。南へ突っ切れば元町《もとまち》となって、そこを東の方へ曲がって行けば、お茶の水の通りとなる。
その道筋を通りながら、宮川茅野雄は歩いて行く。女巫女の占った運命のことなど、今はほとんど忘れていた。
(仕官しようか、浪人のままでいようか)
この日頃心にこだわっている、この実際的の問題について、今は考えているのであった。
(せっかく仕官をしたところで、長崎仕込みの俺の蘭学を、活用してくれなければ仕方がない。それよりもいっそ塾でもひらいて、門弟どもをとり立てようか)
師匠の青木昆陽が、その世間的の勢力をもって、茅野雄を諸侯に[#「諸侯に」は底本では「諸候に」]推薦していたが、肝心の茅野雄の心持は、大して進んでいなかった。と云って塾をひらいたところで、はたして生活が出来るかどうか? これが茅野雄には不安であった。どっちつかずの心持で、長崎から帰って今日で半年、ブラブラ遊んでいるのであった。放胆で自由で新智識で、冒険心もある茅野雄だったので、そういう今のような境遇にあっても、あえて焦心《あせ》りはしなかったが、多少の屈託にはなっていた。
(青木先生の食客となって一生冷や飯を食うのもいいさ)などと磊落に思うこともあった。
(父母もなければ兄弟もなく、親戚《みより》もないということが、こんな場合にはかえって気安い)
しかし時にはそういうことが、寂しみとなって感ずることもあった。
宮川茅野雄は歩いて行く。
と、青木侯[#「青木侯」は底本では「青木候」]のお屋敷の、土塀を左へ曲がった時に、先へ行く二つの人影を見た。一人は、若い侍で、背後《うしろ》姿ではあったけれど、何とも言えない品《ひん》と位《い
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