雨のように、草叢の中から聞こえてくる。音らしいものと云えばそれだけである。
と、その僧は手を上げて法衣の襟をほころばせたが、そこから紙片を取り出した。そして無言で手を延ばして、その紙片を縁の上へそっと大事そうに置いたのである。
2
その紙片こそは由井正雪が臨終に際して書きのこしたところの世にも珍らしい遺書《かきおき》なのであって、慶安謀叛の真相と正雪の真価とを知りたい人には無くてならない好史料なのである。
私がそれを手に入れたのはほんの偶然のことからであって、意識して求めた結果ではない。しかし私がその遺書のある肝心の部分だけを解り易い現代語に書き直して発表するということには多少の意味がある意《つもり》である。
とはいえ私は説明はしまい。意味を汲み取るのは読者の領分で私は記載するばかりである。
――以下正雪の遺書――
(前略)……老中松平伊豆守様。貴方《あなた》はきっと驚かれるでしょう。それが私には眼に見えるようです。貴方は恐らくこう仰有《おっしゃ》るでしょう。
「なに正雪が自殺したと? そうしてそれは真実《ほんと》かな?」と。
――そうです、それは真実なのです。私はこれから自殺いたします。私の首を討ち落とそうと、覚善坊はもう先刻《さっき》から長光の太刀を引き着けて私の様子を窺っています。
私の心は今静かです。実に限りなく静かです。顕文紗《けんもんしゃ》の十徳に薄紫の法眼袴。切下髪《きりさげがみ》にはたった今櫛の歯を入れたばかりです。平素《いつも》と少しの変わりもない扮装《よそおい》をして居るのでした。私の周囲《まわり》を取り囲んで十三人の同志の者が声も立てずズラリと居流れて居ます。戸次《へつぎ》与左衛門、四宮《しのみや》隼人、永井兵左衛門、坪内作馬、石橋源右衛門、鵜野九郎右衛門、桜井三右衛門、有竹作左衛門、これらの輩は一味の中でもいずれも一方の大将株で、胆力の据わった者どもでしたから、こういう一期の大事に際しても顔色ひとつ変えてもいません。一同の介錯を引受けた僧覚善に至っては、阿修羅のような顔をして、じっと聴耳を澄ましています。そして時々思い出したように、口の中でこんなことを唱えています。
「生死流転《しょうしるてん》、如心車鑠《にょしんしゃしゃく》、五百縁生《ごひゃくえんしょう》、皆是悪逆《かいぜあくぎゃく》、頓生菩提《とんしょうぼだい》
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