正雪の遺書
国枝史郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)丸橋忠弥《まるばしちゅうや》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)町奉行|石谷左近将監《いしがやさこんしょうげん》

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 丸橋忠弥《まるばしちゅうや》召捕りのために、時の町奉行|石谷左近将監《いしがやさこんしょうげん》が与力同心三百人を率いて彼の邸へ向かったのは、慶安四年七月二十二日の丑刻《うしのこく》を過ぎた頃であった。
 染帷《そめかたびら》に鞣革《なめしがわ》の襷、伯耆安綱《ほうきやすつな》の大刀を帯び、天九郎《てんくろう》勝長の槍を執って、忠弥はひとしきり防いだが、不意を襲われたことではあり組織立った攻め手に叶うべくもなく、少時《しばらく》の後には縛に就いた。
 この夜しかも同じ時刻に、旗本近藤|石見守《いわみのかみ》は、本郷妻恋坂の坂の上に軍学の道場を構えている柴田三郎兵衛の宅へ押し寄せた。
 彼等の巨魁由井正雪は、既に駿府へ発した後で、牛込榎町の留守宅には佐原重兵衛が籠もっていたが、ここへ取り詰めたのは堀|豊前守《ぶぜんのかみ》で、同勢は二百五十人であった。しかし三郎兵衛も重兵衛も忠弥ほど迂闊ではなかったと見えて、捕り方に先立って逐電したが、徳川も既に四代となり法令四方に行き渡り、身を隠すべき隈《くま》も無かったか、間もなく二人とも宣《なの》り出て、忠弥[#「忠弥」は底本では「中弥」]等と一緒に刑を受けた。京都へ乗り込んだ加藤市左衛門も、大阪方の大将たる金井半兵衛も吉田初右衛門も、それぞれその土地の司直の手で、多少の波瀾の後で捕らえられた。
 こうして正雪一味の徒はほとんど一網打尽の体《てい》で、一人残らず捕らえられたが、その捕らえ方の迅速なるは洵《まこと》に電光石火ともいうべく真に目覚しいものであって、これを指揮した松平伊豆守は、諸人賞讃の的となった。
「さすがは智慧伊豆。至極の働き」
 容易のことでは人を褒めない水府お館さえこういって信綱の遣り口を認めたのであった。
 しかるにここに不思議な事には、反徒の頭目由井正雪を駿府の旅宿で縛《から》めようとした時だけは、幕府有司のその神速振りが妙にこじれて精彩がなかった。江戸から発せられた早打が駿府の城へ着いてから、
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