今日の時間にして四時間余というもの、全く無為に費やされたのであった。
 不思議といえば不思議のことで、当時にあっても問題とされたが、しかし正雪は自殺したし、その他随身一同の者もあるいは捕らえられ又は殺され、そうでない者は自殺して、取り逃がした者は一人も無かったので、事はうやむやの間に葬られてしまった。

 駿府から発した早打が、江戸柳営に届いたのは、ちょうど暮六つの頃であった。
 折から松平伊豆守は、老中部屋に詰めていたが、正雪自殺の報知《しらせ》を聞くと、
「それは真実《まこと》か?」と言葉|忙《せわ》しく、驚いたように訊き返した。
 彼にはそれが信じられなかったらしい。引き続いて幾個《いくつ》かの早打が、千代田の門を潜ったが、その齎《もた》らせた報知というはいずれも正雪の自殺したことで、それに関しては最早一点の疑いの余地さえ存しなかった。
「天下のおため、お目出度うござる」
 伊豆守はそれを確かめると、同席の人達へこう挨拶して、その儘役宅へ帰って来た。
 屋敷へ帰っても伊豆守は、支度を取ろうともしなかった。端座したまま考えている。腑に落ちないことでもあるのだろう。
 夜は深々と更けて行く。夜番の鳴らす拍子木の音が、屋敷を巡って聞こえるのさえ、今夜は沁々《しみじみ》と身に浸る。戸の隙からでもまぎれ込んだのであろう、大形の蚊が輪を描きながら燈皿の周囲《まわり》を廻っていたが、ふと焔先に嘗められて畳の上へ転び落ちた。
 その時人の気勢《けはい》がしたが、静かに襖が開けられて、公用人の志摩の顔が開けられた隙から現われた。
「何じゃ?」と、伊豆守は物憂そうに訊く。
「は」と志摩は恐る恐る、
「只今、僧形の怪しい男、是非とも御前にお目通り致し申し上げたき事ござる由にて御門口迄罷り出でましたる故、きっと叱り懲らしましたる所……」
「解《わか》った」と、何か伊豆守には思い当たることでもあると見えて、いつになく早速に聞き届けた。
「その者庭前に差し廻すよう」
「は」と志摩は額を摺り付け、襖を閉じると立ち去って行った。
 間もなく一人の大入道が、袂下《たもとさげ》にされて引き出された。生々しい焼傷が顔を蔽うて目口さえろくろく見分けが付かない。墨染の法衣《ころも》は千切れ穢れてむさい臭気さえ漂って来る。
 伊豆守は故意《わざ》と人を遠ざけ、親しく縁へ出て差し向かった。
 虫の鳴く音が
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