しよう? 知己のご恩をどうしよう? ……この大任を委ねて下された貴郎に対する知己の恩! その大任をお引き受けした貴郎に向かっての私の然諾! この信と義とをどうしよう? これは滅多には棄てられない! それではやはり一味徒党を貴郎に内通した上で、私だけ党中から遁れようか? それにしては彼等が私を信じ私を敬い私を慕うこの感情をどうしよう? 彼も棄てられず是も背かれぬ。ここまで考えて来ました時に忽然と胸中に浮かびましたものは、自殺ということでございました。一死もって党内に酬い、一死もって然諾を全うしよう! こう考えたのでございます。
 一旦決心が付いてからは、私の心は豁然と開け一切の煩悶はなくなりました。仕事も捗取《はかど》って行きました。
 こうして私は江戸を立って駿府へ参ったのでございます。駿府の町を焼打に掛け、駿府の城を乗っ取るというのが、表向きの私の意見でしたが、その実そこで心静かに自殺する意《つもり》なのでございました。
 今や旅宿は捕り方によって、十重二十重に囲まれて居ります。容易に踏み込んで来られますのに、それを来ないというものは、私一人を逃がせよという貴郎からの内命があったからでしょう。
 しかし私は逃げません。同志と一緒に自殺します。
 同志の者は今も私を限りなく信じて居るのです。
 今回の露見に関しても、私が奥村八右衛門をして訴人させたとは夢にも知らず、忠弥の粗忽の結果であろうと勝手に定めて居る程です。
 そして恐らく私の遺書《かきおき》を、貴郎が発表なさらぬ限りは慶安謀叛の真相とその発覚の顛末については、多くの後世の史家達も首を捻ることでございましょう。
 待ち飽ぐんだものと見えまして、捕り方衆の立ち騒ぐ声が表や裏から聞こえてきます。踏み込んで参るのももう直ぐでしょう。いよいよ死ぬ期《とき》が参りました。もうこの遺書を書きつづける間《ひま》も、たくさんはあるまいと存ぜられます。
 遺書は覚善に託します。私を初め同志の者を悉く介錯した後で、単身囲みを突き破って必ず遺書はお届けすると、彼は大変意気込んで居ります。
 いよいよ踏み込んで参りました。乱れた跫音が聞こえて参ります。しかし早速にはこの部屋へは入って来ることはなりますまい。鴨居から鴨居へ麻縄を張り渡してあるからでございます。
 今生の名残りに壁の面《おもて》へ辞世を書くことに致します。
「翼の調わざ
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