慕われるというこの快感! この感情こそは、私を駆って私に貴郎を裏切らせ、私の生命を同志の者に投げ与えさせたのでございます。



 寛永十三年十一月、七十五名の頭立った者が血判を据えた謀叛の趣意書を私の前へ突き付けて、私に謀叛を勧めました。頭目になるようにというのでした。彼等をしてこの様にいわしめたのはやはり私でございましたが、いよいよ彼等にこう出られて見ると、気の毒に思わざるを得ませんでした。
「俺を幕府の細作《かんじゃ》とも知らず、俺の詭計に引っかかるとは思えば気の毒な連中ではある」
 惻隠の情とでもいうのでしょうか、こういう感情が湧くと一緒に自己|譴責《けんせき》の心持も、起こらない訳にはいきませんでした。
 爾来私は彼等を相手に、所謂る謀叛の旗上げの準備に取りかかったのでございます。
 私は彼等に云いました――
「先ず其《それがし》の方寸としては最初江戸にて事を起こし漸次駿府大阪京都と火の手を挙ぐるがよろしかろう。また甲斐国甲府の城は要害堅固にして征むるに難い。しかし某の兵法をもってすれば陥落《おとしい》れることも容易である。一手は下野《しもつけ》日光山に立籠もることも肝要でござろう。華麗を極めた東照宮を焼き立てるのも一興じゃ」
 それから私はなお細々と、策戦について語りました。
「江戸は本丸西丸の、両丸に兵燹《へいせん》を掛けねばならぬ。機を見て城中へ兵を進め新将軍を奪取する。又京都は二条の城及び内裏へも火を放ち、勿体至極もないことながら、帝の遷幸を乞い奉れば公卿《くげ》百官は草の如くに必ず伏し靡くに相違ござらぬ……」
 こう云って説いて行く中に私はふっとこんな事を心の隅で思いました。
「この従順な勇士達を、手足のように使い砕《こな》し、ほんとに自分が徳川家に対して、不軌を計ったとしたならばどういう結果になるであろう? 三月、いやいや二月でもよい、二月の間幕府の軍を、支えることは出来ないであろうか? 二月幕兵を防ぎ得たとしたら、四国九州に残っている、豊臣恩顧の大名達が、旗を動かさないものでもない。それらの大名と呼応したならば面白い賭博《ばくち》が打てるかもしれない」
 私は一種の武者振いを禁ずることが出来ませんでした。
「しかし」と直ぐに思い返しました。
 乱を起こすことはいと容易《やす》い。防ぎ戦うことも出来るかもしれない。しかし然諾《ぜんだく》をどう
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