徳川家を怨んで乗ずべき隙もあれかしと虚を狙っているに相違ござらぬ。一網打尽に致したけれど罪を犯さねばそれもならぬ。頼みというのはここのことでござる。貴殿の勝れた才覚をもってこれらの者共を糾合して、事を起こしては下さるまいか」
つまり私に徳川幕府の細作《かんじゃ》になれと云われるのでした。当代の政治《しおき》に順服《まつろ》わぬ徒輩《とはい》を一気に殲滅《ほろぼ》す下拵えを私にせよというのでした。
私は当惑する前に知己の恩に感じたのでございます。私のような一|布衣《ほい》を限りなくお信じなされればこそ、この一大事をお任せ下さるのだ。自分は幕府に対しても、又徳川家に対しても、何等恩怨ある者ではない。ただ士は己を知る者のために死す。一つ大いに頼まれようと、決心したのでございました。
お受けして帰ったその後の私は、益々辺幅を修めました。一層門戸を張りました。すると道場は、それに連れて繁昌するではございませんか。まもなく門弟三千人と註されるようになりました。一万石以上の大名|生活《ぐらし》! それが私の生活でした。そういう生活をしている間も、私は隙無く目を配って、これはと思われる武士に対して、あるいは武芸で嚇し付け又は弁論で胆を奪い配下に附けることを忘れませんでした。集まって来た一味の中には、毛色の変わった人間も、幾人か見えて居りました。
一貫弾の大砲を抱え打ちにする牧野兵庫――紀伊家のご家臣でございます。降雨晴天自由自在、天文に秀でた秦野式部……これらは分けても、党中にあっても異色のある者達でございます。この他奥村八右衛門をもって訴人致させましたその際に、お手許に迄差し出したはずの連判状に記されてある頭立ったる数十名の者は、いずれもそれぞれ何等かの方面の達人なのでございます。
しかし、徳川の社稷《しゃしょく》に向かって鼎《かなえ》を上げようとするような者は、ほとんど一人もないということは確かな事実でございます。即ち一方の旗頭たる者は、済々として多士ではございますが、将帥の器を備えている者は、全然皆無なのでございます。正雪、鈍才ではございますが、この徒と肩を並べた時だけは、やはり采配を握る者は自分を措いて他にないということを、感じさせられるのでございます。それか有らぬかこれらの者は、ちょうど慈父でも慕うように、私を慕うのでございました。
慕われるというこの苦痛!
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