ったある日のこと、お品の家で、お品と新八郎とが、しめやかな声で話していた。
「お品、私はお前をいとしく[#「いとしく」に傍点]思うよ。お前一人だけを。……お前も私をいとしく[#「いとしく」に傍点]思ってくれるだろうね。裏切りはしまいね。この私を。……私は女に裏切られた男だ」
 新八郎はこういうように云って、自分の前へつつましく坐り、うなだれているお品の額へ、そのきゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]な手をやった。ほつれている髪を上げてやったのである。お品は頷《うなず》くばかりであった。
(妾《わたし》もほんとにこのお方が好きだ。何の妾が裏切ろう。妾は決して裏切りはしない。でも、ある強い外界からの力が、妾を裏切らせようとしている)
 お品にはこれが苦しかった。どう云って返辞をしてよいか? それも解らなかった。頷くばかりで黙っている理由《わけ》はこれであった。
 ふとお品は新八郎へ訊いた。
「お勘定奉行の松本伊豆守様とおっしゃいますお方は、どういうお方なのでございましょう」
「厭な奴らしい」
 新八郎は吐き出すように云った。
「賄賂取りの名人だ。自分でも随分賄賂を使う。田沼侯へ贈賄して、あれまで
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