ている。暁近い月の下に生白く光るは川水らしい。
「たしか此方の方角のはずだ」
上流の方へ歩いて行く。
と、果して蒲鉾小屋が、ハタハタと裾を風に吹かせ、生白く月光に濡れながら、ションボリとして立っていた。
「うむ、これだな」と立ち止まったが「さあ何んといって声をかけたものか?」思案せざるを得なかった。「乞食と呼ぶのも変なものだ。御免というのも変なものだ。まさかに許せなどともいわれまい。……はてな?」
というと深呼吸をした。芳香が馨って来たからである。
「香を焚くという噂だが、成程な、香の匂いだ。しかも非常な名香らしい」
とはいえ勿論野武士育ちの、ガサツな赤川大膳には、何んの香だか分らなかった。
そういう赤川大膳にさえ、無類の名香に感ぜられたのだから、高価なものには相違あるまい。
それが大膳を尊敬させて了った。
「御浪士!」と大膳呼んだものである。
ところが内から返辞がない。で復《また》「御浪士」と呼んでみた。矢っ張り内からは返辞がない。
「眠っているのかな、留守なのかな?」
耳を澄ましたが寝息がない。
「失礼、ごめん」と声を掛け、大膳、小屋のタレを上げた。
落ちかかった月の蒼白い光が横からぼんやり射し込んでいたが、見れば誰もいなかった。
だが白々と一葉の紙が莚の上に落ちていた。
取り上げて見ると短冊であった。
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風蕭々易水寒シ
壮士一度去ッテ復還ラズ
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「ははあ夫れでは立ち去ったのか?」赤川大膳考え込んでしまった。「では山内伊賀之助殿の、仕官亡者という観察は、狂ったものと見なさなければならない。伊賀殿の観察を狂わせる程の乞食、いよいよ只者では無さそうだな。……焚きすてられた香の香が、残って立ち迷っているところを見ると、つい今し方立ち去ったのだろう。寒い! どっちみち帰るとしよう」
四
御先供は赤川大膳、先箱二つを前に立て、九人の徒士、黒積毛の一本道具、引戸腰黒の輿物に乗り、袋入の傘、曳馬を引き、堂々として押し出した。後から白木の唐櫃が行く、空色に白く葵の御紋、そいつを付けた油単を掛け、黒の縮緬の羽織を着た、八人の武士が警護したが、これお証拠の品物である。それから熨斗目《のしめ》麻上下、大小たばさんだ山岡|主計《かずえ》、お証拠お預かりの宰領である。白木柄の薙刀一振を、紫の袱紗で捧げ持ち、前後に眼を配っている。つづいて血祭坊主が行く。つづいて行くのは島村左平次、戸村次郎左衛門、石川|内匠《たくみ》、石田典膳、古市喜左衛門、山辺勇助、中川蔵人、大森弾正、齋藤一八、雨森静馬、六郷六太郎、榎本金八郎、大河原八左衛門、辻五郎、秋山七左衛門、警衛として付いて行く。つづいて行くのが天一坊の輿物、飴色網代蹴出造、塗棒朱の爪折傘、そいつを恭々しく差しかけている。少し離れて行くものは、天忠坊日親で、これまた先箱を二つ立て、曳馬一頭を引かせている。つづいて行くのは藤井左京、抑えの人数を従えている。最後に馬上で行くものは、即ち山内伊賀之助、熨斗目麻上下を着用し、総髪にして蒼白い顔、鷲のように鋭く澄み切った眼、広い額に善謀を現し、角ばった※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]に果断を示し、高い頬骨に叛気を漂わせ、キッと結んだ唇に、揶揄、嘲笑をチラツカせている。これも片箱一本道具、曳馬無しに従えている。下座触制止の声を掛け、同勢すべて二百人、大坂を立って江戸へ入る。徳川天一坊の行列である。
淀川堤へかかった時だ、山内伊賀之助上流を見た。
蒲鉾小屋が立っている。
「ははあきれだ[#「きれだ」に傍点]な」と呟いたが、何となく不安の表情が、チラチラチラと眼に射した。
「荊軻《けいか》の賦した易水の詩、そいつを残して立ち去った乞食、鳥渡《ちょっと》心にかかる哩《わい》。荊軻は失敗したのだからな。そうだ刺客を心掛けて。秦の始皇帝を刺そうとして。……勿論我々の企ては、将軍を刺そうというのではない。いやむしろあべこべ[#「あべこべ」に傍点]だ。将軍になろうとしているのだ。しかし危険という点では、荊軻の企ての夫れよりも、より一層いちじるしい。……易水の詩! 失敗の詩! どうも幸先がよくないなあ」
こんな気持を感じたのは、伊賀之助としては始めてであった。
「ナーニ何うだって構うものか、どうせヤマカンでやっていることだ。成功しようと思うのが、元々間違いといっていい。だがそれにしてもその乞食に、逢えなかったのが心残りとはいえる」
下座触制止堂々と、行列は先へ進んで行く。
「九分九厘成就と思っていたが、何んだかあぶなっかしく[#「あぶなっかしく」に傍点]なって来た。弱気というやつだな、こいつは不可ない! どうでも追っ払ってしまわなければならない……一番俺にとって致命的なのは、曾て一度も
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