お嬢さん!」立派な仏蘭西《フランス》語で張は云った。女の顔は蒼褪めた。そして神妙に手をあげた。張は片手で拳銃を握り空いている片手を働かせて女の外套を探ったが、素早く鉄箱を取り出した。
「さあもうこれで用はない――ねえお嬢さん、さぞあなたは残念にお思いなさるでしょうが、それは少々気がよすぎます。しかしあなたのやり口は全く上手なものでした。支那西域の庫魯克格《クルツクタツク》の淡水湖に限って住んでいる、※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]々《ぼうぼう》という毒ある魚の小骨の粉末《こな》を香に焚いてそれで人間を麻痺させるなんて実際あなたはお怜悧《りこう》でした。そういう秘伝を知っている者は支那の道教の信仰者か西域地方を踏破した人か、どっちかに限られている筈です。どうしてあなたがそれを知っているか、そんなことはお尋ねしますまい。私という人間がいなかったらあなたのやられた方法は立派に成功したでしょう。私のいたのはあなたにとってはとんだ災難というものです……汽車が徐行を始めましたね。まだオムスクへは着かない筈だ。さては石炭の供給かな。とにかくあなたには好都合です。さあさあ早くお下りなさい。警察官へ渡すにはあなたは余りに美しすぎる。それにあなたは東洋人だ。そして私も東洋人だ。同情し合おうじゃありませんか」
 張は一方へ身を除けながら、出口の扉《ドア》を開けてやった。すると女は猫のようにプラットホームへ飛び下りた。そしてそのままその姿を吹雪の闇へまぎれ込ませた。
 闇の中から女の笑う美しい声が聞こえて来た。
「美しい支那の貴公子よ! 今日はお前が勝ったけれどいつかは私が勝って見せる。沙漠で逢おうねまたお前さんと……私は沙漠の娘だよ。沙漠ではお爺さんが待っています。ではさようなら、さようなら!」
 ほんとにその声は美しい。張は石のように佇んだままその声の後を追っていた。恋愛《こい》を覚えた人のように。
 まだ車中では眠っていた。香爐からは煙りが上がっていた。

        八

[#天から4字下げ](以下は支那青年張教仁の備忘録の抜萃である)
 私達はオムスクで一泊した。翌朝早くホテルを出てイルチッシ河の河岸へ出た。流程二千三百|哩《マイル》、広々と流れる大河の態《さま》は大陸的とでも云うのであろう。一行は汽船へ乗り込んだ。セミパラチンスクまで行くのである。両岸はキルギス
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