した。マハラヤナ博士もレザールもダンチョンさえも昏々と壁板へ頭をもたせかけて人心地もなく眠っている。よく見ると乗客全部のものが皆他愛なく眠っている。たしかに眠っているらしい。しかし誰も彼もおかしなことにはその眼を大きく明けている。それでは眼醒めているのだろうか? それにしても彼らは身動きをしない。その時ラシイヌはふとさっきから、東洋でくゆらす抹香《まっこう》のような、死を想わせるような、「物の匂い」が、閉じこめた車内を一杯にして、匂っているのに気がついた。彼はある事を直感した。で彼は危難から遁《の》がれようと急いで窓へ手をかけたが、もうその時は遅かった。見る見る身内の精力が消え、四肢が棒のように硬直し眼だけ大きく見開らいたまま腰掛けの上へ転がった。しかし意識は明瞭であった。あらゆるものがよく見えた。乗客も手荷物も窓|硝子《ガラス》も。しかし一本の指さえも動かすことは出来なかった。尚、物音もよく聞こえた。列車の突進する轍《わだち》の音、窓に吹きつける雪の音……ラシイヌはその時室の隅で女の笑う声を耳にした。笑い声の起こった室の隅を彼は辛うじて眺めて見た。口と鼻とへマスクを掛けた一人の女が立っている。赤い土耳古《トルコ》帽に黄色い手袋、狐の毛皮の外套を着て紫の靴を穿いている。そして右手に青銅で造った日本の香爐を捧げている。大変小さい香爐ではあるがそこから立ち昇る墨のような煙りは強い匂いを持っていた。女は室内を見廻した。それから香爐を腰掛けへ置いてツカツカとこっちへ近寄って来た。少しも躊躇することなしに彼女はレザールへ走り寄った。同じようにちっとも躊躇せずに彼女はレザールの上着を剥いだ。それからチョッキをまた剥いだ。そして下着を引き破り胴巻に包んだ鉄の手箱をそこからズルズルと引き出した。彼女は胴巻を床へ棄て手箱を眼の前へ持って来てしばらく仔細に見ていたがようやく納得したと見えて外套の内隠《うちかく》しへしっかりと蔵《しま》いホッと初めて吐息をしてそのまま隣室の扉へ行ってドアの取手《とって》に手をかけた。しかし女が捻らない先に鉄の取手がガチャリと鳴って扉が向側《むこう》から押し開らいた。女は二、三歩よろめいた。その鼻先へ突き出されたものは自動拳銃の銃口《つつさき》である。女はまたもよろめいた。すると扉口から一人の男――料理人姿の東洋人――張教仁が現われた。
「手をお上げなさい
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