帽子を洩れて漆黒の髪が頸《うなじ》へ幾筋かかかっている。匂うばかりの愛嬌を持った。それでいて鋭い鋼鉄の眼、羅馬《ローマ》型ではない希臘《ギリシア》型の、顫《ふる》えつきたいような立派な鼻、その口は――平凡な形容だが――全く文字通り薔薇のようだ。可愛らしく小さい紫色の靴、形のよい細っそりとした黄色い手袋……
 彼女は新聞を膝へ置いてちょっと小首を傾げた後、側のバスケットの蓋をあけて中から林檎《りんご》を取り出した。それから彼女は手袋を脱いで林檎の皮をむき出した。露出した手首が陽に焼けて鳶色を呈していることは!
「ね」とラシイヌはダンチョンに云った。「どうしても怪しい女だよ。あれだけの美貌とあれだけの服装。どう踏み倒しても命婦《めいぶ》だね。土耳古《トルコ》皇帝の椒房《ハレム》にいる最も優秀なる命婦だよ。皇妃と云ってもいいかも知れない。ところがどうだい、あの手の色は! まるっきり労働者の手の色だ……でそこで僕は思うのだ。あいつは唯の女じゃないよ」
「それじゃ掏摸《すり》だとおっしゃるので? あの素敵もない別嬪を?」ダンチョンは不平そうに云ったものである。「僕には怪しいとは思われませんね。彼女はきっと旅行家でしょう。だから陽に焼けているんですよ」
「手首だけ陽に焼けるわけがないよ」
「土耳古《トルコ》婦人はいつの場合でも面紗《ヴェール》で顔を隠すそうです。顔や頸《うなじ》が焼けなくて手首だけ焼けるのはそのためでしょう」
「なるほど」とラシイヌは微笑して、「その解釈はよいとしても、どうして常時《しょっちゅう》僕らの方へああも視線を向けるのかね。あいつの注意を引くような好男子は一人もいない筈だ」
「視線を向けると思うのは恐らくあなたの眼違いでしょう。僕にはそうは見えませんものね」
「よし」とラシイヌは語気を強め、「レザールの意見を聞くとしよう」
 彼は車中を見廻したが、同業であり後輩である私立探偵レザールは、どこの腰掛けにも見えなかった。はるか向こうの窓際にこの一行の立て役者の博言博士マハラヤナ老が――世界を挙げて探しても十五人しかいないという回鶻《ウイグル》語の学者とは思われないほどの好々爺然とした微笑を含んでコクリコクリ居眠りをしている横に、これもやっぱり同行の冒険好きの医学士で一行の衛生を担任しているカルロス君がいるばかりで、レザールの姿はどこにも見えない。
 ラシイヌ
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