。ズボンのポケットの辺にだね」
「きっと偶然にさわったんでしょう。あんなに美しい若い女がまさかに掏摸《すり》はやりますまい」
「…………」ラシイヌは返辞をしなかった。見て見ないような様子をして、列車の片隅に腰かけながら新聞を見ている疑問の女へじっとその眼をやったものである。
 十二月極寒の西伯里《シベリア》を、巨大なインターナショナル・ツレーンは、吹きつける吹雪を突き破り百足《むかで》のような姿をしてオムスク指して駛《はし》っている。しかし室内は暖かい。暖かい室内には乗客達が各自《めいめい》好みの外套を着て毛皮の襟をしっかりと合わせ座席に腰かけて話している。一等客室のことであるから、誰を見ても大概はカルチュアされた立派な紳士や淑女達で話している言葉も上品であった。モスクバ訛りの鼻声で声高に話している夫婦者、病身らしい十八、九の蒼ざめた娘はその横の方でじっと黙って聞いている。恐ろしいほどによく肥《ふと》った宝石商らしい老人は、自分の前に腰かけている貴公子風の美男子をとらえて、パミール高原で見つけたという黒|金剛石《ダイヤ》の話しを話している。その横の方では支那商人が、あたりの様子には無関心に、琥珀《こはく》のパイプで雲南煙草をポカリポカリと喫っている。見廻りのボーイがやって来ると周章《あわ》ててパイプを隠すのであった。小露西亜《ウクライナ》あたりの地主らしいむんずりと肥えた四十男は先刻から熱心に玻璃窓を通して日没の曠野の光景を一人黙って眺めていたが、やがてポケットから骨牌《かるた》を出して一人で占ないをやり出した。蒙古の豪族とも思われる五人の伴《とも》を連れた老人は、卵型をした美貌を持った妙齢の支那美人を側へ引き寄せ仲よく菓子を食べている。五人の従者はその様子を東洋流の無表情の眼でむしろ慇懃《いんぎん》に眺めている。トルキスタン人の一団はずっと向こうの客車の隅で、何か間違いでも起こったと見えて、口やかましく論じている。そのトルキスタン人の一団を左手に見た片隅に、土耳古《トルコ》型の美貌の持ち主の問題の女がいるのであった。きわめて豪奢な狐の毛皮の大型の外套をふっくりと着て体全体を隠してはいるが、強靱な、それでいてスラリとした、きゃしゃではあるが弾力のある、素晴らしく優秀な肉体が外套を通してうかがわれる。いちじるしく目立つのはその帽子だ。それは深紅の土耳古《トルコ》帽で、
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