しよう。
 明日は沙漠へ向かうのだ。沙漠が私を呼んでいる……(備忘録下略)

        七

「あの女を君はどう思うね?」
 ラシイヌは小声で囁《ささや》いた。
「前から気がついてはいましたが、土耳古《トルコ》型の素晴らしい美人ですね――あれをモデルにして描きたいものだ」
「描かざる画家」のダンチョンはこれも小声で囁いた。ラシイヌはちょっと舌打ちをしたが、ニヤリと苦笑したものである。
「君の描きたいねも久しいものだ。描きたい描きたいというばかりで何一つ君は描かないじゃないか。だから皆が君のことを描かざる画家のダンチョンだなんて下らない綽名《あだな》をつけたのさ――あれほど君が意気込んでいた『獣人』の絵だってまだ描かない。ほんとに君はなまけ者だ……それはそうと向こうのあの女だが、君は変だとは思わないかね?」
「変だって何が変なんです?」
「そういう返辞が出るようなら君には向こうのあの女の変なところが解らないと見える。いいかいよっく見てみたまえ、今あの女は下を向いて熱心に新聞を見てはいるが、その実新聞を見ているのではなく僕らの様子を見ているのだよ」
「なんで僕らを見るのでしょう?」
「さあね、そいつは解らない。わからないから不思議なのさ。いったいどこからあの女はこの列車へ乗り込んだのだろう?」
「チェリアビンスクからだと思います」
「よく君はそんなことを知っているね?」ラシイヌはちょっと不審そうに訊いた。
「知ってるわけがあるんです」ダンチョンは何んでもなさそうに、「絵葉書を買おうと思いましてね、チェリアビンスクで汽車が止まると僕は早速下りました。プラットホームへ下りたんです。下りた拍子に僕の胸へぶつかって来た者があったのでヒョイと顔をあげて見るとですね、土耳古《トルコ》美人が立っているのです。『ごめん遊ばせ』と仏蘭西語《フランスご》で云って顔を赧らめたというものです。見ると女の荷物を担いだ赤帽が背後《うしろ》に立っていました。だからあの駅で乗車《の》ったんですよ」
「ふうん、あの女がぶつかった? たしかに君にぶつかったんだね? 実は僕にもぶつかったのさ。クルガンの停車場へ停車《つ》く前に煙草《たばこ》を喫《の》もうと思ってね、喫煙室へ出かけたものさ。あの女の前を通った時だ。不意に女が立ち上がって僕の腰の辺へぶつかったよ。その時僕は敏捷に働く手の触覚を感じたものだ
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