じんの脈膊はというと、どうやら乱れ勝ちでございました。ハハア心臓がお悪いな。その時私は思いましたので」
「おっしゃる通りでございます」夫人は憂わし気に云ったものである。「印度から故郷へ帰りましたのも、その病気のためでございました」
「ところで目下のご容態は?」
「危険というほどではございませんけれど……医者が私に申しますには、もう一度こんなような驚愕《おどろき》を――神経と心臓とをひどく刺戟する病気に大毒な驚愕《おどろき》を最近に経験するとなると、生命《いのち》のほども受け合われないなどと――あるいは脅かしかも知れませんけれど……」
「ははあそのように申しましたかな?」
レザールは黙って考え込んだ。わずかに開けられた窓の隙から春の迅風《はやて》に巻きあげられた桜の花弁《はなびら》が渦を巻いて、洋机《テイブル》の上へ散り乱れていたが、ふたたび吹き込んだ風に飛ばされどこへともなく舞って行った。
隣室で時計が十一時を報じ、なま暖かい春陽《はる》の光が洪水のように室に充ち窓下の往来を楽隊が、笛や喇叭《ラッパ》を吹きながら通って行くのも陽気であった。
夫人は深い吐息をして、
「そういう訳でございますので、燐光を放す怪獣が二度と窓の辺へ来ないように、致したいのでございますけれど、しかしこれを警視庁へ届け、警官の方に来て戴いて邸宅《やしき》を守ってなどいただいては、事があんまり大仰になり、世間一般に知れましたら良人が意気地なしに見えますし……」
「いかにもさようでございますね――世間一般に知れますより、敵党の連中に知られることが閣下にとっては不得策の筈で」
レザールは片眼をつむり[#「つむり」に傍点]ながら、少し皮肉に云ったものである。
「はいその通りでございます……良人《おっと》が市長になるに付いては大分反対者がございまして、選挙も苦戦でございました……ですから良人が今になって心臓の悪い病人だなどと敵党の人達に知られましたら、乗ぜられないものでもなし、それに犬のようなそんな獣に脅かされたなどと思われましたら、市長の威厳に関しますので」
「それで私達民間探偵にご依頼なさろうとなすったので? いやよく事情はわかりました。出来るだけお力になりましょう」
「どれほど費用はかかりましても、その点はご心配くださいませんように」
夫人は云って口ごもった。レザールは頷いたばかりである
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