思いますの。どうでしょうほんとに眼の縁《ふち》だけ燐のような光に輝いている大きな犬のような動物が、良人《おっと》の居間の窓の枠へ前足を二本しっかりと掛けて、硝子《ガラス》戸越しに主人の居間を覗き込んでいるではございませんか。あやうく叫び声をあげようとしてやっと私は声を呑み、狂人《きちがい》のように手を揉みながら、じっと聞き耳を立てました。良人の室から嗄《しわが》れた良人の言葉が洩れましたからで……
 ―― ROV《ロブ》! 湖! ――埋もれた都会! ……帰ってくれ帰ってくれ恐ろしいコ……マ……イ……ヌ――。
 嗄れた良人の声の中から私に聞き取れた言葉と云えばただこれだけでございました。それとて私には何んのことだかちっとも意味が解りませんでしたけれど――主人が喋舌《しゃべ》っている間中、怪獣は身動き一つせず、じっと聞き澄ましているのでした。主人の声が途切れた時突然怪獣は飛び上がりました。そうして一本の前足を硝子戸の枠へ掛けたかと思うと、どうでしょうスルスルと硝子戸が、横へ開いたではございませんか。良人は叫び声をあげました。そうして床へ倒れたと見えて、ドシンという音が聞こえて来ました。その後の記憶はございません。私も気絶致しましたので」
 市長夫人は沈黙した。室がにわかに寂然《しん》となった。
「大体事情は解りました」レザールがその時静かに云った。「そこで奥様のご心配は――何よりも奥様のご心配は、市長閣下の健康が以前《まえ》からあまり勝れていず、現在あまり質《たち》のよくない心臓病にかかられている、その点にあるのでございましょうね? ところで閣下のご容態はどんな塩梅でございましょう?」
「おや!」
 と夫人はまた呆れて、
「どうしてそんな事ご存知でしょう? 良人の心臓のよくないことは、私以外どなたも知らない筈ですのに」
「しかし探偵というものはこれと思う人と逢った時、ただぼんやりとその人を見守っているものではございません――顔の特徴、体の様子、そしてまた握手などする場合には、その人の脈膊をさえ計ります……市長閣下にお目にかかった時、さすがは有名な探検家として阿弗利加《アフリカ》を初め印度《インド》、南洋、中央|亜細亜《アジア》、新疆省《しんきょうしょう》と、蕃地ばかりを経巡《へめ》ぐられて太陽の直射を受けられたためか、お顔の色の見事さは驚くばかりでありましたが、さてかん
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