と囁いて、隣室まで純八を誘った。
「何んと本条殿、あのご老僧は、貴殿のご縁辺ででもござるかな?」――声を窃《ひそ》めて先ず訊いた。
「いや縁者でも知己でもござらぬ。しかも今日|邂逅《おめにかか》ったばかりの、赤の他人でござりまするがな……」――純八は幽《かすか》に眉をひそめ「何か老僧のご病気に就き不審の点でもござりまするかな?」
「左様、些不審ではござるが、夫れは又夫れとして何れ千斎、研究致す事として、兎に角至急あの御僧を門外へお移しなさりませ」
「それは又何故でござるかな?」
「いやいや何故も兎角も不用、一刻も早く追い出しめされ」
「それは不仁と申すもの、理由の説明無いからには、左様な不親切は出来ませぬ」
 純八は首を振るのであった。すると千斎は気の毒そうに、
「御身の上に恐ろしい災難が振りかかっても宜しゅうござるか?」
「他人に好意を尽くすことが、何んの災難になりましょうぞ!」
「その好意もよりきり[#「よりきり」に傍点]じゃ」――千斎はいとも苦々しく「悪虫妖狐|魑魅魍魎《ちみもうりょう》に、何んの親切が感じられようぞ。寸前尺魔、危険千万、愚老は是でお暇申す。貴殿もご注意なさるがよい」
 気にかかる言葉を後に残して、医師千斎は帰って行った。
「悪虫妖狐魑魅魍魎に何んの親切が感じられようぞ? ハテ、これは何ういう意味であろう?」――純八は口の中で呟いて、多少心にもかかったが、再び病室へ取って返えし、今はスクスクに睡っている気高い老僧の顔を見ると、からり[#「からり」に傍点]と心が澄み返えり、何時かそんな言葉を忘れて了《しま》った。
 その翌日のことであったが、僧は褥から起き上がり、昨夜からの介抱の礼を述べたが、縁側へ出て草鞋を穿こうとした。
 驚いたのは純八で、周章《あわ》てて衣の袖を引き、
「是は何んとなされます? よもやご出立ではござりますまいな?」
「いやいや是でお暇でござる」僧は微妙な笑い方をし、「是非発足たねばなりませぬ。と申すのは此辺に愚僧の敵がござるからじゃ。いやいや長袖と申す者は、変に意地くね[#「くね」に傍点]の悪いものじゃ。貴殿もご用心なさるがよい。あの千斎とか申す薬師、ろく[#「ろく」に傍点]な者ではござらぬ依って……が貴殿のご親切は愚僧決して忘れは致さぬ。恐らく直ぐにも好いご運が御身に巡って参ろうと存ずる。ご免下されい。おさらばでござる」

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