であろうと、斯う思い込んで居りましたところ、頃日、名家の墨跡を見、歳の字の件《くだり》まで参りました所、才の字が書かれてございました」
「それとて当字ではござらぬよ。即ち、才は哉の古字、而て哉は戴に通じ、尚又戴は歳の字と同意義、自然才の字は歳の字に通じ、二者は全く同一字でござる」
 そこで純八は復《また》訊いた[#「復《また》訊いた」は底本では「復|訊《また》いた」と誤記]。
「拙者は此土地の郷士でござって祖父の代までは家も栄え、地方の分限者でござりましたが、父の世に至って家道衰え、両親此世を逝って後は、愈々赤貧洗うが如く、ご覧の通り此拙者、妻帯の時節に達し居り乍ら、妻も聚[#「聚」はママ]《めと》れぬ境遇ながら、文武の道のみは容易に捨てず、学ぶ傍子供を集めて、古えの名賢の言行などを、読み聞かせ居る次第にござりますが、「童子教」という、古来よりの著書《ふみ》、覚え易く又教え易き為、子供に読ましめ居ります所、内容余りに僧家の事のみ多く、且、如何わしい説なども有って、聖賢の名著とは思われず、此儀如何にござりましょうか?」
「左様、名著ではござらぬの。取るにも足らぬ俗書でござる」
 僧は言下に弁えたが、
「とは云え此書著名と見え、早く唐土にも渡り居り経国大典巻の三に「倭学に在りては童子教庭訓往来こそ最も優れ……」と、既に申して居るとこを見ると、俗間の書としては久しい間、行われて居たものと思わるるよ」
 純八、松太郎の二人の者は愈々心に驚いて、益々僧を尊敬したが、分けても純八は学問好きの為めか僧を懐しくさえ思うようになった。
 で、松太郎の帰った後、尚何時迄も引き止めて、更に様々問答したが、永い六月の日も暮れて点燈《ひともし》頃になったので、俄に僧は立ち上がり謝辞を述べて帰えろうとした。と、困難の修行の旅が老齢の彼を弱らせてたものか、我破と縁先へ転って、口から夥しく穢物を吐いた。
「や、これはご病気と見える。まずまず座敷へお這入りなされて暫くご安臥なさりませ」
 純八は老僕に手伝わせ、急いで褥を設けると、老僧を中へ舁き入れたが、是ぞ本条純八をして、数奇の運命へ陥らしむる、最初の恐ろしい緒《いとぐち》なのであった。

  山なす財物

 純八は老僕の八蔵を、医師千斎の許へ走らせた。
 間も無く遣って来た千斎は、静かに老僧の脈を数え、暫くじっと考えていたが、
「鳥渡お耳を」
 
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