くみ》芸名|源女《げんじょ》そういう女と妙な縁から、彼一流の恋をした。ところが今から一年ほど前に、不意にその女が居なくなった。悪御家人の悪足と一緒に、駆落ちしたのだという噂があったり、養母に悪いのがついていて長崎の異人へ妾《めかけ》に売ったのと、そんな噂があったりしたが、とにかく姿を消してしまった。浪之助は妙にその女には、かなりの執着を持っていて、姿を消されたその当座は、ちょっと寂しく感じたりし、もうその女がいなくなった以上、そんな曲独楽なんか見るものかと、爾来《じらい》よりつきもしなかったが、今日は彼の心の中に、昔なつかしい思いが萌《も》えた。そこで、木戸をくぐったのである。
 桟敷と土間もかなりの入りであった。
 舞台には華やかな牡丹燈籠が、二基がところ立ててあり、その背後《うしろ》には季節に適《かな》わせた、八橋の景が飾ってあり、その前に若い娘太夫が、薄紫|熨斗目《のしめ》の振袖で、金糸銀糸の刺繍をした裃《かみしも》、福草履《ふくぞうり》を穿いたおきまりの姿で、巧みに縄をさばいていた。
「おや、ありゃア源女じゃアないか」
 驚いて浪之助は口の中で叫んだ。
 娘太夫は源女のお組、それに相違ないからであった。
 瓜実《うりざね》顔、富士額、薄い受口、切長の眼、源女に相違ないのであった。ただ思いなしか一年前より、痩せて衰《おとろ》えているようであった。
(舞い戻ってこの席へ出たものと見える)
 油然《ゆうぜん》と恋心が湧いて来た。
(逢って様子を聞きたいものだ)
 その時源女が昔ながらのとはいえ少し力の弱い声で、
「独楽《こま》は生独楽生きて廻る」と、口上を節づけて述べ出した。
「縄も生縄生きて動く。……小だめしは返り来の独楽、縄を離れても慕い、翻飜として飛び返る。ヤーハッ」と云ったかと思うと、右手の振袖が渦を巻き、瞬間縄が宙にほぐれ、差し渡し五寸もあるらしい、金蒔絵黒塗り銀心棒、朱色渦巻を胴に刻《ほ》った独楽が、唸《うな》りをなして舞い上り、しばらく宙に漂うように見えたが、あだかも生ける魂あって、すでに源女に手繰《たぐ》られている、絹、麻、髪を綯《な》いまぜて造った、鼠色に見える縄を目掛け追うかのように寄って来た。
 と、源女は右手を出した。
 その掌《てのひら》に独楽は止まった。
 グルリと掌を裏返した。
 逆《さか》さになったまま掌に吸いつき、独楽は森々《しんしん》と廻っている。
 どっと喝采が見物の中から起こった。
 しかしどうしたのかその一刹那、ポタリと独楽が、掌から落ち、源女は放心でもしたように、桟敷の一所を凝然と見詰めた。


 恐怖がその顔に現われている。
(どうしたんだろう?)と驚きながら、源女の見詰めている方角へ、浪之助も眼をやった。
(や)とこれも驚いた。
 そこに、桟敷に、見物にまじって、榊原|式部少輔《しきぶしょうゆう》様のお長屋の庭で、老武士を相手に試合をしていた、陣十郎という壮年武士が、舞台を睨《にら》むように見ているではないか。
 単なる浪之助の思いなしばかりでなく、陣十郎の眼と源女の眼とは、互いに睨み合っているようであり、源女が独楽を掌から落とし、放心したように茫然としたのも、陣十郎の姿を認めたからであると、そんなように思われる節があった。
(二人の間には何かあるな)
 そんなように思われてならなかった。
「弘法にも筆のあやまり、名人の手からも水が洩れる、生独楽を落としました源女太夫のあやまり、やり直しは幾重にもご用捨……」
 床から独楽を拾い上げ、顫えを帯びた含み声で、こうテレ隠しのように口上を述べ、源女が芸を続け出したのは、それから直ぐのことであった。
 これがかえって愛嬌になったか、見物は湧きもしなかった。
 その後これといって失敗もなく、昔ながらに鮮かに、源女は独楽を自由自在に使った。
 一基の燈籠に独楽が投げ込まれるや、牡丹が花弁《はなびら》を開くように、燈籠は紙壁《しへき》を四方に開き、百目|蝋燭《ろうそく》を露出させ、焔の先から水を吹き出し、つづいてもう一基の燈籠の中から、独楽が自ずと舞い上り、それを源女が手へ戻した途端、そのもう一基の燈籠も、紙壁を開き水を吹き出した。この最後の芸を終えて、悠々と源女が舞台から消えると、見物達は拍手を送った。
 浪之助は小屋を出て、裏木戸の方へ廻って行った。
「久しぶりだな、爺《とっ》つぁん」
 木戸口にいた爺《じい》さんへ、こう浪之助は声をかけた。
「へい」と木戸番の爺《おやじ》は云った。
「これは杉様で、お珍しい」
「たっしゃでいいな、一年ぶりだ」
「旦那様もおたっしゃのご様子で」
「源女が帰って出演《で》ているようだな」
「よくご存知で、ほんの昨今から」
「ちょっと源女に逢いたいのだが」
「さあさあどうぞ」と草履《ぞうり》を揃えた。
 心
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