、気の毒そうに壮年武士を見た。
壮年武士の表情には、軽侮と傲慢とがあるばかりであった。
しかし娘にそう云われた時、その表情を不意に消し、
「これは恐縮に存じます。……いや私の伎倆など、まだまだやくざ[#「やくざ」に傍点]でござりまして、まさしく小父様に右の籠手《こて》を、一本取られましてござります。……将来気をつけるでござりましょう」
「さようさようそれがよろしい、将来は気をつけ天狗にならず、ますます勉強するがよい。いやお前にそう出られて、わしはすっかり嬉しくなった。……では茶でものむとしようぞ。……陣十郎《じんじゅうろう》来い、澄江来い」
好々爺の本性に帰ったらしく、こう云うと老武士は木剣を捨て、屋敷の方へ歩き出した。
「では陣十郎様、おいでなさりませ」
「は」と云ったが陣十郎様という武士は、何か心に済まないかのように、何か云い出そうとするかのように澄江の顔を凝視するばかりで、歩き出そうとはしなかった。
「澄江様。……澄江様」
「はい、何でございますか?」
「私の甲源一刀流、お父上の新影流より、劣って居るとお思い遊ばしますかな?」
「いいえ……でも……わたくしなどには……」
「お解《わか》りにならぬと仰せられる?」
「わかりませんでござります」
「わからぬものは剣道ばかりか……男の、男の、恋心なども……」
「……」澄江の眼には当惑らしい表情が出た。
「打とうと思えば小父様など、たった一打ち手間暇はいらぬ。……打たずにかえって打たれたは……澄江さま、貴方のためじゃ」
「…………」
その時屋敷の縁の上から、
「おいで、こら、何をして居る」
老武士が呼んで手を拍った。
「羊羹を切ったぞ。おいでおいで」
「はい」と云うと陣十郎へ背を向け、澄江はそっちへ小走った。
「ちと痛い」と右の手を揉み、
「あの老耄《おいぼれ》、フ、フ、何を……が、澄江には恩をかけた。……この手で……」
と口の中で呟きながら、陣十郎という若い武士は、屋敷の方へそろそろと歩いた。
3
(どうにも変な試合だったよ)
浪之助はそんなことを思いながら、両国の方へ歩いて行った。
(それにしてもちょっと[#「ちょっと」に傍点]美《い》い娘だった)
こんなことをチラリと心の隅で思い、独り笑いをもらしたりした。
年はまだ二十三歳、独身で浪人であった。
親の代からの浪人で、その父は浪之進といい、信州|高島《たかしま》の家臣であったが、故あって浪人となり、家族ともども江戸に出た。貨殖の才がある上に、信州人特有の倹約家《しまつや》で、金貸などをひそかにやり、たいして人にも怨まれないうちに、相当に貯めて家屋敷なども買い、町内の世話をして口を利き、武士ではあったが町人同然、大分評判のよくなった頃、五年ほど前にポックリ死に、母親はその後三年ほど生きたが、総領の娘を武家は厭、町家の相当の家柄の家へ、――という希望を叶えさせ、呉服問屋へ嫁入らせ、安心したところでコロリと死に、後には長男の浪之助ばかりが残った。当然彼が家督を取り、若い主人公になり済まし、現在に及んでいるのであるが、この浪之助豚児ではないが、さりとて一躍家名を揚げるような、一代の麒麟児でもなさそうで、剣道は一刀流を学んだが、まだ免許にはやや遠く、学問の方も当時の儒家、林|信満《のぶます》に就《つ》いて学んだが、学者として立つには程遠かった。
ところがこのごろになって浪之助は、何かドカーンと大きなことを、何かビシッと身に泌みるようなことを、是非経験したいものだと、そんなように思うようになった。なまぬるい生活がつづいたので、強い刺戟を求め出したと、そう解釈してよさそうである。
袴無しの着流しで、蝋塗りの細身の大小を差し、白扇を胸の辺りでパチツカせ、青簾に釣忍《つりしのぶ》、そんなものが軒にチラチラ見える町通りを歩いて行った。
浅草観世音へ参詣し、賽銭を投げて奥山を廻り、東両国の盛場へ来たときには、日が少し傾《かたむ》いていた。
娘太夫を巡って
1
両国橋を本所の方へ渡ると、江戸一番の盛場となり、ことに細小路一帯には、丹波から連れて来た狐爺《きつねおやじ》とか、河童《かっぱ》の見世物とか和蘭陀眼鏡《おらんだめがね》とかそんないかがわしい見世物小屋があって、勤番武士とか、お上りさんとか、そういう低級の観客の趣味に、巧みに迎合させていた。講釈場もあれば水芸、曲独楽《きょくごま》、そんなものの定席もできていた。
曲独楽の定席の前まで来て、浪之助はちょっと足を止めた。
しばらく思案をしたようであったが、木戸銭を払って中へ入った。
こんなものへ入って曲独楽を見て、口を開けて見とれるという程、悪趣味の彼ではないのであったが、以前にここの娘太夫で、美貌と業《わざ》の巧いのとで、一時両国の人気を攫った、本名お組《
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