剣侠
国枝史郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)杉浪之助《すぎなみのすけ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)信州|高島《たかしま》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]
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木剣試合
1
文政×年の初夏のことであった。
杉浪之助《すぎなみのすけ》は宿を出て、両国をさして歩いて行った。
本郷の台まで来たときである。榊原式部少輔《さかきばらしきぶしょうゆう》様のお屋敷があり、お長屋が軒を並べていた。
と、
「エーイ」
「イヤー」
という、鋭い掛声が聞こえてきた。
(はてな?)
と、浪之助は足を止めた。
(凄いような掛声だが?)
で、四辺《あたり》を見廻して見た。
掛声はお長屋の一軒の、塀の内側から来たようであった。
幸い節穴があったので、浪之助は覗いて見た。
六十歳前後の老武士と、三十五六歳の壮年武士とが、植込の開けた芝生の上に下り立ち、互いに木剣を構えていた。
(こりゃアいけない)
と浪之助は思った。
(まるでこりゃア段違いだ)
老武士の構えも立派ではあったが、しかし要するに尋常で、構えから見てその伎倆《うで》も、せいぜいのところ免許ぐらい、しかるに一方壮年武士の方の伎倆は、どっちかというと武道不鍛練の、浪之助のようなものの眼から見ても、恐ろしいように思われる程に、思い切って勝れているのであった。
それに浪之助には何となく、この二人の試合なるものが、単なる業《わざ》の比較ではなく、打物《うちもの》こそ木剣を用いておれ、恨みを含んだ真剣の決闘、そんなように思われてならなかった。
豊かの頬、二重にくくれた頤、本来の老武士の人相は、円満であり寛容であるのに、額《ひたい》を癇癖《かんぺき》の筋でうねらせ、眼を怒りに血ばしらせている。
これに反して壮年武士の方は、怒りの代わりに嘲りと憎みを、切長の眼、高薄い鼻、痩せた頬、蒼白い顔色、そういう顔に漂わせながら、焦心《あせ》る老武士を充分に焦心らせ、苦しめるだけ苦しめてやろうと、そう思ってでもいるように、ジワリジワリと迫り詰めていた。
(やるな)
と浪之助の思った途端、壮年武士の木剣が、さながら水でも引くように、左り後ろへ斜めに引かれた。
誘いの隙に相違なかった。
それに老武士は乗ったらしい。
一足踏み出すと真っ向へ下ろした。
壮年武士は身を翻えしたが、横面を払うと見せて、無類の悪剣、老武士の痩せた細い足を、打ったら折れるに相違ない、それと知っていてその足を……打とうとしたきわどい[#「きわどい」に傍点]一刹那に、
「あれ、お父《とう》様」という女の声が、息詰まるように聞こえてきた。
正面に立っている屋敷の縁《えん》に、十八九の娘が立っていた。
跣足《はだし》でその娘が駈け寄って来たのと、老武士が木剣を閃《ひら》めかせたのと、壮年武士が「参った」と叫び、構えていた木剣をダラリと下げ、苦笑いをして右の腕を、左の掌で揉んだのとが、その次に起こった出来事であった。
浪之助も塀の節穴越しに、苦笑せざるを得なかった。
(若い武士が打たれるはずはない。わざと勝を譲ったんだ)
そう思わざるを得なかった。
浪之助は娘を見た。
柘榴《ざくろ》の蕾を想わせるような、紅《あか》い小さな唇が、娘を初々しく気高くしていた。
2
「何だそのような未熟の腕でいながら、傲慢らしく振舞うとは」
こう老武士の窘《たしな》めるような声が、浪之助の耳へ聞こえてきたので、老武士の方へ眼を移して見た。
娘を横手へ立たせたまま、壮年武士と向かい合い、老武士は説いているのであった。
「たとえどのような伎倆《うで》があろうと、世間には名人達人がある、上越す者がどれほどでもある、増長慢になってはいけないのう」
こう云った時には老武士の声は、穏やかになり親切そうになり、顔からも怒りがなくなっていた。
「第一わしのようなこんな老人に、もろく負けるようなそんな伎倆では、自慢しようも出来ないではないか。のう澄江《すみえ》、そうであろうがな」
「まあお父様そのようなこと……もうよろしいではござりませぬか……でも陣十郎様のお伎倆《うでまえ》は、お立派のように存ぜられますわ」
藤と菖蒲《あやめ》をとりあわせた、長い袂の単衣《ひとえ》が似合って、※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけて[#「※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけて」は底本では「臈《ろう》たけて」]さえ見えるその娘は、とりなすようにそういうように云い
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