「待て」
「へい」
「何者だ」
「ごらんの通りで……お見遁しを」
「うふ、そうか、おっこち[#「おっこち」に傍点]同志か」
「へい」
「行け」
「ごめんなすって」
「これ、待て待て」
「何でございます」
「物騒な殺人者《ひとごろし》が立ち廻っているぞ。用心をして行くがいい」
「――へい、ご親切に、ありがたいことで。……」

 三月が経ち初秋となった。
 甲州方面から武州へ入るには、大菩薩峠を越し丹波川に添い、青梅《おうめ》から扇町谷《おおぎまちや》、高萩村《たかはぎむら》から阪戸宿《さかどじゅく》、高阪宿と辿って行くのをもって、まず順当としてよかった。
 この道筋を辿りながら、一人の若い武士と一人の娘とが、旅やつれしながら歩いていた。
 鴫澤主水《しぎさわもんど》と澄江《すみえ》とであった。
 父の敵水品陣十郎を目つけ、討ち取って復讐しようという、敵討ちの旅なのであった。
 主水と陣十郎との関係は?
 従々兄弟《またいとこ》という薄いものであって、あの時からおおよそ三カ月ほど前に、飄然と鴫澤家へ訪ねて来て話を聞いて見れば、成程そんな親戚もあったと、ようやく記憶に甦えったくらいで、世話する義理などないのであったが、寛大で慈悲深い庄右衛門は、そういうことにはこだわらず[#「こだわらず」に傍点]、陣十郎の懇願にまかせ、家へ寄食させて世話を見てやった。

敵討の旅


 これが大変悪かった。
 はじめのうちは陣十郎も、猫を冠って神妙にしていたが、次第に本性を現わして、出ては飲み、飲んでは酔って帰り、酔って帰っては武芸の自慢をし、庄右衛門や主水の剣法を、児戯に等しいと嘲ったり、不頼漢《ならずもの》らしい風儀の悪い男女をしげしげ邸へ出入させたり、そのうち娘の澄江に対して横恋慕の魔手を出しはじめた。
 澄江は庄右衛門の実の娘ではなく、一人子の主水と配妻《めあ》わす目的で、幼児から養って来た娘であり、この頃庄右衛門は隠居届けを出し、主水と澄江とを婚礼させ、主水を代わりに御前へ出そうと、心組んでいた折柄だったので、陣十郎の横恋慕は、家内一般から顰蹙された。
 自然冷遇されるようになった。
 冷遇されるに従って、いよいよ陣十郎は柄を悪くし、ますます庄右衛門や主水の剣法を、口穢く罵った。そこでとうとう腹に据えかね、あの日庄右衛門は庭へ下り立ち、陣十郎と立ち合った。立ち合って見て庄右衛門は、広言以上に陣十郎の剣法が、物凄いものであることを知り、内心胆を冷やしたが、娘の澄江が仲に入ったため、意外にも陣十郎から勝を譲られた。しかし庄右衛門は考えた。この恐るべき悪剣法者を、このまま屋敷にとめ置いては、我家のためになるまいと。そこでその日茶を飲みながら、それとなく退去を命じてしまった。
 これが陣十郎の身にこたえた。
 彼としては勝をゆずったのであるから、今後は厚遇されるであろう、そうして勝をゆずったのは、澄江が出現したからで、澄江のためにゆずったのである。だから今後はおそらく澄江も、自分に好意を持つだろうと、そんなように考えていたところ、事は全然反対となった。
 そこで小人の退怨《さかうらみ》! そういう次第ならと悪心を亢ぶらせ、翌夜不意に庄右衛門を襲い、寝所でこれを切り斃し、悲鳴に驚いて出て来た澄江を、得たりとばかりに引っ抱え、これも物音に驚いて、出て来た主水をあしらいあしらい、戸外《そと》へ走り出て遁れようとした。
 と、意外な助太刀が出た。
 秋山要介や浪之助であった。
 そこで澄江を手放したあげく、身を持て遁れ行方《ゆくえ》不明となった。
 こうなって見れば主水としては、なすべき事は一つしかなかった。
 敵討《かたきうち》!
 そう、これだけであった。
 父の葬式《そうしき》を出してしまうと、すぐに敵討のお許しを乞うた。
「よく仕《つかまつ》れ」と闊達豪放の主君、榊原式部少輔《さかきばらしきぶしょうゆう》様は早速に許し、浪人中も特別を以て、庄右衛門従来の知行高を、主水に取らせるという有難き御諚、首尾よく本望遂げた上は、家督相続知行安堵という添言葉さえ賜った。
「お兄様|妾《わたくし》も是非にお供を」
 いよいよ旅へ出るという間際になって、こう澄江が云い出した。
「お父上が陣十郎に討たれました。その原因の一半は、妾にあるのでござりますから」
 こう澄江は主張するのであった。
「女を連れての敵討の旅、それはなるまい」と主水は拒んだ。
「主君への聞こえ、藩中の思惑、柔弱らしくて心苦しい」
 こう云って主水は承知しなかった。
「宮城野《みやぎの》、しのぶ[#「しのぶ」に傍点]は女ばかり、姉妹《きょうだい》二人で父の敵を、討ち取ったではござりませぬか」


 だから私達兄妹二人で、父の敵を討ち取ったところで、不思議はないというのであった。
 そういう澄江
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