しくも憐れにも思われて、断行することが出来なかった。
(夜の風にでも吹かれて来よう)
で、こっそりと宿を抜け出したのである。
9
足にまつわる露の草を、踏分け踏分け陣十郎は歩いた。
街道を馬の列が通って行く。
それを避けて草野を歩いて行くのである。
(ガーッとどいつかを叩っ切ったら、この心も少しはおちつくかもしれない)
そんなこともふと思われた。
(ウロウロ女でも通って見ろ)
そんな兇暴の考えも、チラチラ彼の心の中に燃えた。
と、そういう彼の希望に、応じようがために出て来たかのように、行手から女が星の光で知れる、小粋の姿を取り乱し、走ったり止まったりよろけ[#「よろけ」に傍点]たりして、こっちへ歩いて来るのが見られた。
(しめた!)と一刹那陣十郎は思った。
(宿の女か、旅の者か、そんなことはどうでもいい、来かかったのが女の不運! ……)
で、素早く木陰に隠れた。
その女はそれとも知らぬか、よろめくような足どりで、その前を通って行き過ぎようとした。
不意に躍り出た陣十郎、物をも云わず背後《うしろ》の方から……
「あッ」
不意の事だったので、女は驚きの声をあげたが、……
しかし次の瞬間に、二人はパーッと左右へ別れた。
「貴様はお妻!」
「陣十郎様か!」
サーッとお妻は逃げだした。
「待て!」
刀を抜いて追っかけた。
澄江と夫婦ならぬ夫婦となり、共住居《ともずまい》から旅に出た。そうなってからはお妻のことは、ほとんど陣十郎の心になかった。
ところが意外にもこんな事情の下に、あさましいお妻とぶつかった。
高原狂乱
1
仆れて、
「人殺シ――ッ」
だが飛び起き、
「どなたか助けて――ッ」と走り出した。
そのお妻をなお追いかけ、周章《あわて》たために不覚至極にも、切り損った自分を恥じ恥じ、
「逃げようとて逃がそうや! くたばれ、汝《おのれ》、毒婦、毒婦!」
陣十郎は執念《しうね》く追った。
仆れつ、飛び起きつ、刀を避け、お妻は走り走ったが、ようやく街道へ出ることが出来た。
馬、博労、提灯、松明――馬市へ向かう行列が、街道を埋めて通っていた。
そこへ駈け込んだ女|邯鄲師《かんたんし》のお妻、
「助けて――ッ、皆様、助けて!」
「どうしたどうした?」
「若い女だ!」
博労達は騒ぎ立った。
「狂人《きちがい》が妾《わたし》を手籠めにし……殺そうとしてアレアレそこへ!」
瞬間躍り込んで来た陣十郎、
「逃げるな、毒婦、逃がしてなろうか!」
切り付けようとするやつを、
「女を助けろ!」
「狂人を殺せ!」
「ソレ抜身を叩き落とせ!」
ムラムラと四方からおっとり[#「おっとり」に傍点]囲み、棒や鞭を閃めかし、博労達は陣十郎へ打ってかかった。
「汝ら馬方何を知って、邪魔立ていたすか、命知らずめ!」
揮った刀!
首が飛んだ!
「ワ――ッ」
「切ったぞ!」
「仲間の敵!」
「逃がすな!」
「たたんでしまえ!」
「狂人め、泥棒め!」
十、二十、三十人! ムラムラと寄せ、犇いた。
狂奔する馬! 地に落ちて燃える、提燈《ちょうちん》、松明《たいまつ》、バ――ッと立つ火焔!
悲鳴に続く叫喚怒号! 仆れる音、叱咤する声!
百頭に余る馬の群が、音に驚き光に恐れ、野の方へ宿《しゅく》の方へ駈け出した。
「馬が放れたぞ――ッ」
「逃がすな、追え!」
「捕らえろ!」
「大変だ――ッ」
「人殺し――ッ」
ほとんど狂気した陣十郎、剣鬼の本性を現わして、馬と馬方の渦巻く中を、
「お妻! どこに! 逃がそうや!」と、右往し左往し走り廻り、邪魔になる博労、馬の群を、見境いもなく切りつ薙ぎつ、追分宿の方へ走る! 走る!
と、この時一挺の駕籠を、菅の笠に旅合羽、長脇差を揃って差し、厳重に足のかためをした、三十人あまりの博労が守り、茣蓙に包んだ金箱や駒箱、それを担いで粛々と、宿の方からやって来たが、そこへ駈け込んだ馬の群に驚き、街道を反れて野に立った。
上尾宿に長く逗留し、夜道をかけて帰らないことには、木曽福島の納めの馬市に、間に逢わないと焦慮して、帰りを急ぐ馬大尽を守護して、高萩の猪之松とその乾児とが、同じく夜道をかけて来た。――同勢は実にそれなのであった。
2
「馬を放したな、馬鹿な奴だ」
こう云ったのは猪之松で、駕籠の脇に立っていた。
「商売物を逃がすなどとは、冥利に尽きた連中で」
駕籠の戸をあけて騒動を見ていた、井上嘉門が嘲笑うように云った。
「だから一生馬方商売、それ以上にはなれませんので。ハッハッハッ」と附け加えた。
そこへ陣十郎が駈けて来た。
眼が眩んでいて見境いがなかった。
数人を切った血刀を提げ、乱れた髪、乱れた衣裳、返り血を浴びたムキ出しの脛。――そういう姿で駈けて来た。
「陣十郎だ!
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